夢物語の始まり



頬に感じた冷たさと、液体が流れ落ちていく嫌な感触にカスミは眠りから強制的に覚めさせられた。

そして目を開いて、固まった。もちろん、実際体が石のように固まったわけではない。心臓は動いているし、呼吸だってしている。

ただ、漫画や小説などである本当にどうして良いか分からないとき体が硬直し何も出来なくなるのはこういうときなのだろう、と体とは反対に意外と冷静な頭ではそう考えていた。

カスミはたしかに教会の中に居た。それなのにこの憎たらしいくらいに爽快な青空は何なのだろう。そして、眠りを妨げてくれた木の葉から垂れる露。

誰がどう見ても屋外だ。
しかも、都会ではめったにお目にかかれない巨大な樹木。

「ここは、どこ?」

このままここに居るわけもいかず、だがこんな訳の分からない場所でうろうろするわけもいかず、カスミはとりあえず辺りを見回した。

どうやらここは森の中らしく、延々と木が続いている。人が歩くような道も無い。
そして今度は自分の近くを見る。

季節が秋であったことと、カスミがヒールの高いものを好まないのが幸いで森の中を歩いても平気な格好だった。

もしここでスカートやミュールだったら……考えるのも恐ろしい。

(鞄が無い。そういえば携帯も、ノートも教科書も全部入ってたな。――そうだ、お守りっ)

カスミは自分の胸元に有る小さな布の袋を確認してからほっと一息ついた。
中身は一番下の弟がまだ幼稚園に入る前に撮った一枚の家族写真。そして幼馴染からもらった指輪。どちらもカスミの宝物の一つだ。

緊張感が抜けると、なかなか冷静に状況判断が出来るようになった。携帯電話があれば、まだ少しは助けを求める見込みがあったのだが、ここまで何も無いと流石に泣けてきた。

(運が良かったのは、今が朝ってとこか)

地面はそれほど濡れてないのに木の葉に露が出来ている、ということはまだ朝だということ。温度差によって露は出来るのだから、日中ではありえない。そして、青空なのだから雨は振っていない、つまり朝だということになる。

この森の大きさは分からないが、今から歩けば夕暮れ前には森から出られるだろうと考え善は急げと思いついたら早々歩き出した。悪いとは思ったが迷わないようにと進む先々で木の枝を少しだけ折り、目印をつけながら歩いた。

(スバル兄さんがアウトドア好きで助かったな……)

新藤家長男のスバルはのんびりやと周りから言われているものの、実は意外としっかり者で夏休み家族総出のキャンプに行くときはかなり頼りになる存在なのだ。
そのスバルのおかげでこんな状態に陥ってもカスミは落ち着いていられるのだ。
とはいっても、半分はもともとのカスミの性格もあるだろう。

森の中を歩き始めて二時間ぐらい立っただろうか、なかなか森を抜け出せないカスミは少しイライラしながら歩いていた。もしかしたら同じ道を歩いているのかもしれない、とも考えたが進む先に自分がつけた印は見えないのだからそれは無い。

(思った以上に広い……)

いくらキャンプなどをしていても、さすがになれない山道――しかも、獣道ともいえない本当に道なき道――を二時間も休み無しで歩いているのだ。足への負担はかなり大きい。
ちょうど背もたれに丁度良い木に寄りかかるとカスミはそのまま座り込んでしまう。そして立とうとしても、なかなか足に力が入らない。
まさかここまで足に負担をかけていたのかと驚いた。捻ったような痛みは無い。ただ疲れただけだろう。

(しばらく足を休めないと……)

ブーツを脱いで足をマッサージしながら当たりを見回す。やはり今までと変わらない景色が続いていた。
静寂な空間に、小さな音が響く。これは、茂みを掻き分けた時の音。

(こんなときに)

まだ足は思うように動かない。仕方なくカスミは動いた茂みのほうをじっと見つめた。
野生の動物だった場合、むやみに動くほうが危険なときがあるのだ。

「ワン!」

「子犬?」

茂みの中から出てきたのは、茶色と白の毛を持つ子犬だった。人懐っこい子犬なのかカスミの足元までやってくると、周りをクルクルと走り出した。

「お前、どこから来たの?」

犬に言葉が通じるわけ無いが、ここ二時間一言も話さないとなると犬でも良いから話し相手が欲しくなる。
カスミはもともと多くを話す性格ではないが、それは周りの話を聞いていたいからであって一人で黙っているのが好きなわけではないのだ。
それに見ず知らずの場所だ、心細くもある。

「ワン! ワウー!」

人の言葉を理解しているのか、子犬は返事を返した。だがカスミがその言葉を理解できるはずも無く、苦笑いをしながら膝の上にのせた子犬の頭をなでた。

「べスー! どこ行ったの〜?」

茂みの向こうから子供特有の高い声が聞こえてきた。どうやらこの犬を探しているみたいだ。
子犬はカスミの膝の上からどかずに「ワン!」と自分がここに居ることを主張する。

「べス?」

「クーン?」

茂みの中から出てきた女の子が子犬の名前を呼びながら首をかしげると、ベスも返事をしながら同じように首をかしげた。

「お姉ちゃん、村の人じゃないよね。どこから来たの?」

いきなり女の子に声をかけられて驚いたが、カスミは怖がらせないようになるべく優しい声で話した。

「恥ずかしいけど、この森で迷ってしまったんだよ。このあたりは何て言う所?」

女の子からのどこから来たという質問にはあえて答えずカスミはここがどこかを聞いた。ここが日本ではないことが分かってしまったから。

女の子の格好は今の日本では見なれない外国の民族衣装のような服。幼いころに見たアニメのアルプスの少女を思い出した。

それに付け加えて、女の子の髪は赤、瞳は緑と日本人には無い色彩を持っていた。何故日本語が通じたのかは分からないが、ここが日本ではないことははっきりした。

「ここはねアプステラにあるシャサ村の裏山だよ。ラナはねベスのお散歩に来たの」

「そう、ラナは小さいのに偉いね」

「えへへ。お姉ちゃんは、旅人さん?」

「分からない。何も覚えてなくて、気がついたら森の中に居たの」

何も覚えていないというのは嘘だが、そう言ったほうが上手くまとまるだろう。なぜならラナの言う地名が地球では聞いたことの無いものだからだ。

自分の知らない小さな国かもしれないが、はっきりするまではそう言っていたほうが安全だとカスミは判断したのだ。

「じゃあ、お姉ちゃんは行く所がないの? それなら、シャサ村においでよ。みんな優しいから、お姉ちゃんのことも仲間に入れてくれるよ」

「え?」

「行くったら、行くのー!」

「ワン!」

カスミはラナとベスに少々強引に村へとつれてかれた。
村人はラナの言うとおり優しくカスミを受け入れてくれた。迷惑をかけたくないとカスミは初め遠慮がちだったが結局は折れ、「じゃあ、お言葉に甘えて……」とラナの家の世話になることになった。



夜、空に浮かぶ大きな月を見ながらカスミはここが地球じゃないことを確信していた。村人達が怯える魔物のことを聞いたからだ。村人達が嘘を言っているようにも見えなかった。ならばそれがここでの現実ということだ。

カスミはお守りを握り締めながら、あのとき一緒に居た大地とカナタのことを考えていた。そして、おそらくここへ来る切欠となったシアンのことも……。

(三人もこの世界に? 居るなら、早く会いたい)

枕に顔を埋めると、疲れていたのかすぐに眠気が襲ってきた。朝起きたら自分の部屋に寝ており、すべて夢だったら……そう考えながら眠りに着いた。

夢の中で見る夢は、彼女にとってひと時の安らぎとなる。



序章 現の終わり 【完】

 

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