教師の前に一人の夫
「さてと、帰りますか…ってメール?」
『送信者:明日香さん
題:お願い
仕事帰りにスーパーよってきてね。明日はハンバーグよ。
合いびき肉、パン粉、玉葱、卵。
デザートにプリン。
忘れたら明日の晩御飯抜きだから。
よろしくね』
(あの…今何時か分かってますか…。この時間で開いてるのは駅前のスーパーですね…)
ただ今の時刻。9時50分を少し過ぎたところ。
車を飛ばしても、普段のスーパーの閉店時刻には間に合わない。そうなると12時まで営業している駅前の大型スーパーへ行くしかない。
それを考えると気が重くなるセレスだった。
「セレス先生?なんか疲れた顔してるけど…」
「ちょっと、妻から買い物を頼まれまして」
向かいにいる小林が気を使い声をかけてくると、セレスは苦笑しながら答えた。
「一家の主は大変ですねぇ」
「えぇ、まぁ…。それじゃ、お先に失礼しますね」
「お疲れ様でした」
職員室に残っている教員達に挨拶をしながら、セレスは帰路についた。
もちろん先ほどのメールに従い、きちんとスーパーによっていく。
(あとは…卵ですね。たしか向こうにありましたね)
携帯電話を閉じ、ポケットにしまうと重くなった籠を持って卵へ向かう途中、余所見をしていたせいかすれ違いに前方から来た人とぶつかってしまう。
昼休みの日高に続き、本日二度目の衝突。ただし、今回しりもちをついたのはセレスだった。
{すみません。大丈夫ですか?}
ぶつかった男から差し出された手と、流暢な英語。
見た目外国人のセレスが日本語を話せないと思ったのだろう。
(大学生ぐらいですかね?)
とっさのときにこうやって英語が出てくるのだから、ずいぶん使い慣れているのだろう。
{ありがとうございます。私は大丈夫です。こちらこそ、すみませんでした}
男の手をかりて、セレスは立ちあがった。
衝突の際に籠から落ちた材料を拾うと―――男も手伝ってくれた―――野菜が傷まなかったことに安堵しながらもう一度男に礼を言って、卵コーナーに向かった。
(卵買う前でよかった…)
「ただいま帰りました」
「お帰りなさい」
家に帰れば仕事から帰ったばかりなのか、スーツ姿の妻が出迎えた。
「はい、明日香さん。それにしてもどうして急にハンバーグを?」
「明日、お父さん達が来るのよ。仕事でこっちのほうに来ていて、今日からお母さんと合流して観光をしているのよ」
セレスから、スーパーの袋を受け取りながら言った明日香の一言にセレスは固まった。
それはもう石のように。
「え、明日ですか!?どうしてそんな急に…」
「あら、何か問題あるかしら?明日は学校も休みでしょう。部活があっても、夕飯前には帰ってこれるじゃないの。明日は秋良も大学が休みだから来るって言っていたし、聞きたいこと沢山あるんじゃないの?」
紫龍 秋良【しりゅう あきら】は明日香の弟であり、セレスが勤める学校の卒業生なのだ。
赴任前に少しばかり学校の話を聞いていたセレスだが、勤めるようになってから不思議に思うことばかりに遭遇するものだから「一度、秋良君と話したいことがあるんです」と明日香に話したことがあった。そのことを彼女は言っているのだ。
「そんなに気を使わなくても大丈夫よ。お母さんも秋良もセレスのこと気に入ってるし、お父さんはお酒飲みながら話を聞いてあげればいいのよ」
黙り込んでしまったセレスが家族に気を使っていると思ったのか、そう言って明日香は笑う。
君もこれから家族の一員。だから少し肩の力を抜きなさい。
結婚式で彼女の父が言った言葉をセレスは思い出した。
彼は「娘を幸せにしてくれ」とは言わなかった。セレスが家族の一員になったから、自分達に気を使わないでほしい、と言った。
そんな彼の優しさを、彼女はしっかりと受け継いだのだろう。
感謝の言葉のかわりに、セレスは最愛の妻へと笑いかけた。
「そんなわけだから…明日は久しぶりに明良の相手してあげてよ」
相手、というのはセレスと明良共通の趣味であるバスケのことだ。
「でも、明日の食事当番は私ですから…」
「明日は特別よ。私もたった一人の弟が可愛いからね。ただし、日曜日はセレスが作ってよね」
「はい、明日香さんの好きなパスタでいいですよね」
こういった、さりげない彼女の優しさがセレスは好きだった。
「さて、明日の話よりも、今日の夕飯のほうが大事よね。先にお風呂入ってきて、そのころには出来てると思うから」
「わかりました」
足早にキッチンへと向かう明日香を見送り、セレスは着替えのために自室へと向かう。
「あれ、時計が無い!?」
スーツをハンガーへかけ、いつのようにポケットから懐中時計を取り出そうとしたのだが、一向に見当たらない。鞄の中かとおもい、隅々まで探すがやはり見当たらない。
『どうかしたか、マスター』
『何を探しているのですか?』
必死に何かを探す、珍しい契約者の姿に何事かとレミエルとフェリオスは声をかける。
「懐中時計が見つからないんだ」
『懐中時計?…あぁ、憑依体質のお前のために牧師だったお前の祖父が作ったあの懐中時計か?』
「レミエル、何故そんなに説明的なんだ?」
おもわず探す手をとめ、セレスはレミエルにつっこんだ。
『気にするな。事実だろ?』
「そうだが…」
幼いころから強い力を持っていたセレスは、悪魔などに取り付かれやすい体質だった。そのために、牧師だったセレスの祖父はセレスに魔よけの懐中時計を与えたのだ。
『でも、今のマスターには必要ないのでは?力をコントロールできるのですし、私たちもマスターを守っているのですから』
確かに大人になったセレスは自分の力を自由自在に扱えるようになった。もちろん、特訓の成果の賜物なのだが。
そんなセレスにとって人間や動物に取り付くような下級悪魔を祓うことなど朝飯前。もちろん魔よけの懐中時計は必要の無いものになってしまった。
それでも、決して手放すことが出来ないのは…
「なんというか、愛着だ。もういい。明日、交番にいってみるから」
祖父が自分に初めてくれたプレゼントだったからだろう。
翌日。セレスが部活を終えて職員室へ行くと、小林がすでに部活を終えてきたのかコーヒーを飲んでいた。
「どうしたんだ、そんなくらい顔して」
「ちょっと、昨日大切なものを無くしてしまって…」
セレスは「ありがとうございます」と礼を言って、小林にだされたコーヒーを受け取る。
「運が良かったな。今日、俺の大学の後輩が来ているんだが、そいつの親が警察なんだ。聞いといて―――」
「小林先生、鈴獅【りんし】先生が帰る前にお話があるとかで、お連れしました」
小林の話をさえぎるように、一人の生徒がやってくる。
小林が顧問を勤める、剣道部の部長である春日【かすが】だった。
春日の示す職員室の入り口には一人の男が立っている。
「丁度良かった。おい、鈴獅!ちょっとこい。…ありがとな、春日。午後の練習には俺も行く」
「はい、わかりました。自分はこれで失礼します」
行儀お辞儀をしてから立ち去る春日と入れ替わるように、小林に呼ばれた男がやってくる。
その男を見て、セレスは思わず声をだす。それは相手も同じだった。
「貴方は…」
「昨日の…」
「なんだ、お前達知り合いなのか?」
そう、小林の後輩だという鈴獅という男。実は昨晩セレスとスーパーでぶつかった男だったのだ。
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