1889年2月7日。
なまえは余ったチケットを手に持ち、ぼんやりとベットの上に寝転んでいた。
本来は両親が乗るはずだった船に、どうして1人で乗っているのだろうと、1人では広すぎるベットの上を左右に転がる。
『仲の良い誰かと』と渡されたチケットを渡す相手などいるはずもなく、かといって断れるはずもなく、もうこの船に乗って数日が過ぎた。
しかもしばらくぶりに再会した新婚夫婦が乗っているというのだから、なまえは喜びと共に複雑な心境である。
―――あんなことがあったのだ。無理もない。
それでも、2人が幸せそうなことになまえは心の底から喜んでいた。嘘ではない。

「………………?」

なまえは、ふとチケットを持っていたほうの手を見る。
先日、船内で迷子になった際に倉庫のような場所に入ってしまい、そこでなにか――鋭いもので指を切ったのだ。
痛みはその一瞬だけで、それ以外はなんともない。しかし、なんだかそこが気になった。

「なんか菌でも入ったかな…」

一応消毒はしたが、大した傷でもない(というより既に傷が見えなくなっている)ので船医には見せていない。
自分が気にしすぎなだけだろう、と目を閉じようとした。
そういえばそろそろ食事の時間だったな、と起き上がる。

「………………………」

なまえは、気が付いたら冷たい水の中にいた。
自然のものとは思えない船の揺れ方と、爆発音を覚えている。
それから、誰かの悲鳴。
水の中は酷く静かなのに、それらの音が耳にこびりついて離れない。

「(息が………)」

出来ない。当たり前だろう。そして、水を吸った服はとても重く、遥か遠い海上へ自身の力で上がれる気はしなかった。
――――死。
その文字が脳裏を掠め、なまえの体温は急速に下がっていった。
ここで――このまま死んでしまう?私も、あの夫婦も?
嫌だ、となまえの胸は恐怖でいっぱいになる。
こんなところで。1人で。死んでしまうのか、私は。
嫌だと思った。生きたいと願った。
そうして―――なまえは"見てしまった"。
船に乗っていた人々を。そんな彼らの姿を。『生きる』という運命を。

「             」

なまえが目を覚ましたとき、そこは見知らぬ病室だった。
看護婦が何かを話しかけ、医師が何かを問いかけるが、なまえは理解が追いついていなかった。
自分は――あそこで死ぬはずだった。そう、心で確信していた。
どうして生きている。願ったからだ。なんで死んでいない。望んだからだ。
取り返しのつかないことをしたと知ったのは、それからずっと後のことだ。
意図的ではない。事故ともいえる。しかし、なまえが自分の『死ぬ』という運命と、"本来の生存者たち"の『生きる』という運命を入れ替えたのは紛れも無い事実である。
それが、何人、何十人のものだったかはわからない。
その入れ替えた運命が尽きるまで、なまえは当時の姿のまま生き続けるのだ。


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