それは、保健室に一歩足を踏み入れた瞬間だった。
「(え……………?)」
なまえは金縛りにあったかのようにその場に停止する。
―――否。
なまえの意思でその場に停止しているわけではない。
もう一歩中に入ろうと動かしたはずの足は、床に縫い付けられたかのように動かなかった。
しかもそれだけではない。
なまえの腕も、指ですらも、ピクリとも動かなくなっていたのだ。
「(虹村……先生………?)」
唯一動く眼球を必死に動かし、未だ瓦礫が少し残っている保健室を見渡す。
すると、壊れている椅子に腰掛けた1人の男が視界に入った。
その黒い髪と厳つい顔つきはどう見ても彼のものだ―――しかしその顔にいつも浮かんでいる優しそうな笑みはそこにない。
「ああ…名字さん。遅かったね」
そして、今こちらの存在に気付いたとでもいうように彼はなまえの名を口にした。
なまえは相変わらず保健室の入り口で停止している状態だったが、虹村はどうやら動けるらしく、すんなりと椅子から立ち上がる。
そのことに驚いて目を見開こうとしたが、そんな些細な動作でさえ今のなまえには出来なかった。
「今日は来ないと思っていたが、待った甲斐があったというものだ」
「…………………」
先生、と声を出そうとして、なまえは自分の口すら動かないことに気付く。
「ああ…しばらくは喋らなくていい。最も、君がきちんと俺と一問一答で会話をしてくれるというなら、口くらいは動かせるようにしてあげてもいいがな……」
何度か眼球以外を動かせる場所がないかと探ってみたものの、自分の身体ではないかの如くその身体は決して動くことは無かった。
壊れている椅子をしっかり机の中に入れ、虹村は再びなまえへ向き直る。
しかし近付こうとはせず、なまえのことをじっと観察するように見つめていた。
「あの方は君のことを調べて場合によっては仲間に引き入れろと言っていたが、健康状況は至って良好。成績もなかなかに宜しい。そこら辺にいる普通の学生で、こんな状況じゃなければ子供の嫁になってほしいくらいだよ本当」
「……………………」
「ああ…あの方というのはDIO様のことなんだけどね。まあ君みたいな高校生が耳にしていい名前じゃないことだけは確かだ」
なまえは虹村の話に耳を傾けながらも、カチカチという時計の音を近くに聞く。
だが、目線を動かしたところで視界に時計が入ることは無かった。
椅子をきちんと戻すなどというきっちりとした面を持っているものの、そういったことはあまり気にならない性格のようである。
「そしてどうやら花京院の奴が君を餌に空条承太郎のことを釣ったようだったから何か起こるだろうかと見ていたが君はただ操られるだけ…そんなにあの方を待たせるわけにもいかないし、こうして直々に俺が相手をしてやろうというわけだ」
虹村は一歩、なまえに近付いた。
「あの方が気にかけるということだから念には念をということで色々用意していたが……まさかこんなものだったとは。あの方も、気にかける人を間違えたんじゃないか?こんな危機的な状況でもスタンドを出す様子は無いし………おいどうした?身体は動かせなくとも、スタンドは動かせるはずだ」
もう一歩前に足を踏み出した虹村を、なまえはじっと見上げる。
未だにお互い手を伸ばしても触れられない距離であったが、虹村はどうやら何かあればすぐに後ろへ移動出来るようにしているらしかった。
「それとも"射程距離"に入っていないから何もして来ないのか…?」
また一歩、前へ出た。
「ふん……まあいい。隠し通そうとしているならそれでもいい…命の危険を感じれば、お前だってスタンドを出さずにはいられないはずだ」
「――――――!?」
虹村はつまらなそうにそう言うと、どこからか取り出したのか黄色い鋏を手にしている。
なまえの虹村を見つめていた瞳は、ゆっくりとその黄色い鋏へとうつり。
虹村は、自分の目の前に張られている糸を一本、躊躇することなく断ち切った。
瞬間、なまえの身体は後方へと勢い良く吹っ飛ばされる。
「っづぁっ!!!」
そこで初めて、なまえは自分の声が出せた。
声というよりも痛みに呻く声であったが、痛む身体を起こそうとした腕を見下ろし、身体の自由が利くようになったことに少しばかり安堵する。
「俺のスタンドは"ハザードライン"。さっきの糸―――まあスタンド使いなら見えるはずだが、あの糸とスタンドの力で仕掛けた罠は連動しててな。切断が発動のスイッチってわけだ」
「っぁ……罠………?」
ガラガラと崩れる瓦礫の元であった壁は何かに吹っ飛ばされるように壊れ、なまえも同様に吹っ飛ばされたあとで廊下にある壁に激突したのだった。
だが、虹村が立っている場所から後ろは何事も無かったかのように綺麗なままである。
「――――名字!?」
「!!?」
自分の名前を呼ばれ、なまえは咄嗟にそちらを向いた。
その際に本当に自分は自由に動けるようになったのだと安心したが、それどころではない。
廊下の角で、驚いたようにこちらを見つめている二人の少年が視界に入った。
「ふむ……花京院は負けて寝返ったということか。まあいい」
「!」
ジャリ、という音が耳に入り、なまえは音に反応して真正面を向く。
虹村は身に纏った白衣を揺らし、手にしている黄色い鋏を自分の前へと持っていった。
「二人とも、来るな!!」
そして二度目の破壊音。