「――――で。どうしてオレが授業をきっちりかっちり受けてこうして放課後をむかえているんだろうね」
「勉強は学生の義務だからね」
「そういうのはオレより小テストの点数が上になってから言ってほしいものなんだけど……」
HR後に返却された英語の小テストを見つめながら震え声でそう言ったなまえに、呆れ顔で牛深は溜息をつく。
普段授業を受けていない自分よりもはるかに点数が低い彼女に、牛深はどうしたものかと立ち上がった。
既に日之影は生徒会の仕事ということで教室にいなかった―――つまり、牛深は既に日之影の存在を覚えていない。
忘れていることに気付かないまま、牛深はテストを握り締めるなまえへと近付いた。
「それじゃ、まあ。もう学校は終わったわけだし、オレの目的を果たしてもいいんだよね?」
「あ、うん。牛深くん、何で今日は学校に来たの?」
「ああ、それはね」
と、牛深が笑みを深くした瞬間。
突然、前触れも無く、牛深が標識を横へ振りかぶった。
「っ!?」
驚きの声を上げる間もなく、なまえは自分の顔の横を見る。
恐る恐るだったので視線のみの動きだったが、ピタリと自分の右耳すれすれで止まった標識の棒の部分に冷や汗をかいた。
ゆっくりと視線を牛深へとうつす―――が、牛深はこちらを向いていなかった。
なまえに背中を向けている牛深は、じっと目の前にいる人物を睨みつける。
「突然初対面のクラスメイトを標識で殴ろうとするなんて、随分見た目と違って凶暴じゃないか。牛深柄春くん」
「初対面なのにオレの名前を知ってるだなんてもしかしてオレのストーカーかな?」
「あはは。やめてくれよ気持ち悪い。僕は君のストーカーじゃなくてなまえちゃんのストーカーなんだからさ」
「おい今さらっと警察沙汰のこと言ったぞコイツ」
その声に、姿を見なくともわかる。
少し身体をずらせば、なまえよりも長いであろうその紫がかった髪が揺れて。
「やあなまえちゃん。久しぶり。抱きつきにきたよ。ついでに、助けに来たよ」
「うん………相変わらずだね黒神くん…」
なまえがこちらを見たことに気付いたのか、真黒はその細い右腕を前に出し、ウインクをしながらなまえを指差す。
相変わらずの真黒に若干引き気味ではあるが、一応そんな真黒に笑顔で手を振った。
「助けに来た…って、別にオレは今みたいにこの標識で名字さんを殴ろうとしたわけじゃないんだけど……」
「だからそれはついでだって言ってるだろ?細かいことは気にするなよ牛深くん」
「…ああ、まあ……そうだね。アンタに関しては違うことを気にした方がいいみたいだ」
牛深も真黒のペースにはまってしまったようで呆れたように標識をなまえの顔の横からどける。
当然、真黒の顔の横にきていた"一時停止"の表記も無くなり、真黒は更に余裕たっぷりの笑みを零した。
「とりあえず、さっきは何だか嫌な予感がしていきなり殴ろうとして悪かったねクラスメイト。でもどうやらその嫌な予感っていうのはアンタの変態さにあったわけなんだろうけど…」
「ふふふ。そういうことに関しては君は良い勘を持ってるみたいだね。ああ―――まあ、突然殴ろうとしたことに関しては気にしてないよ」
そう笑みを浮かべたまま寛容な心で許した真黒に、牛深は引きながらもほっと胸を撫で下ろす。
真黒はいつの間にかなまえを指差していた手を下ろしてポケットに突っ込んでいたらしく、そのまま二歩、牛深へと近付いて。
「これでおあいこだからね」
声も無く、牛深柄春は地面に崩れ落ちた。
突如無くなったなまえと真黒の間の障害物に、なまえは驚く暇さえない。
地面に崩れ落ちた牛深よりも、目の前で得体の知れない小さなスプレーを持った真黒から、目が離せなかった。
何だ――――これは。
一体――――なにが。
「安心しなよ牛深くん。ほんのちょっと、3日間ほど眠っていられるただの睡眠スプレーだからさ」
そんなことを言ってはいるが、黒神真黒の視界に、意識に、既に牛深柄春というクラスメイトは存在しない。
彼の頭の中は、目の前の少女―――名字なまえのことでいっぱいだ。
「なんだいなまえちゃん。そんなを顔して。………ああ。そうか」
真黒は手にしていたスプレーを適当に投げ捨て、なまえへ一歩、また一歩と確実に近寄っていく。
なまえにこれ以上後ろは無かったし、それでなくとも、黒神真黒の雰囲気にのまれ、声も出せない。
そして真黒はなまえの後ろにある窓へ手をつき、なまえへその端正な顔を近付ける。
なまえの耳元へ口を寄せ、優しい笑みで囁いた。
「ようやく危機感を覚えてくれたみたいだね」