「感心しませんね。図書館では静かにするものですよ」
なまえの目前まできていた飛沫の足が止まる。
新たな登場人物の声をなまえは聞いたことがあったが、その姿は飛沫が長身のため見ることができない。
「過負荷にしちゃ、随分と常識的な注意の仕方だな」
飛沫の口元には相変わらず笑みが浮かんでいる。
しかし、その視線はなまえではなく新たな登場人物の方へと向いていた。
「蛾々丸くん、ここは立ち入り禁止なんだけど」
「選挙管理委員の方が"この辺りは立ち入り禁止"だと言っていたので立ち入りました」
飛沫の問いに、蛾々丸くんと呼ばれた青年は当然のように答える。
最も、ここが立ち入り禁止だと知ったうえで入ってきたのは青年が1人目ではないのだが。
「この間ぶりですね。なまえさん」
「あ…うん」
蝶ヶ崎蛾々丸。彼もまた、マイナス十三組の1人である。
彼は悪意の欠片もない笑みをなまえへ向けたが、なまえは飛沫のこともあり歓迎している風ではなかった。
「こんなときまで勉強だなんて、受験生は大変ですね」
その話は先ほどもした、となまえは目線をこちらに背を向ける飛沫へ流す。
「怪我はありませんか?…なんだかこの状況で口にするのはおかしな感覚ですが」
「うん、なんとか大丈夫」
「これから大丈夫じゃなくなるんだからさ、邪魔しないでくれよ蛾ヶ丸くん」
「あなたもなかなか、人のことが言えない人間ですね」
蝶ヶ崎は壊れた机を見ながらそう呟く。
こちらを見ていなかったが、その言葉が自分に向けられたことだと飛沫は理解した。
「彼女の『例外』は例外なく全てのものへ働いている。それは彼女の不幸を喜べないあなたにもです。黒神真黒や雲仙冥利、宗像形。あともう1人くらいいた気がしますが―――彼ら同様、あなたは『例外』にぶち当たったことで、今までの自分の生き方が通用しないことに戸惑って、その原因に対して、自分の生き方は間違っていなかったことを強引に証明しようとしている」
「一丁前になまえ先輩とあたしのことを知った風に言うんだな」
「いえ。これは"私"の気持ちですよ」
「っ!?」
蝶ヶ崎の言葉に、飛沫は驚いたようになまえを振り返る。
だが、なまえは飛沫が何故こちらを向いたのかがわからず、困惑の表情を浮かべていた。
舌打ちをしたいのをぐっと堪え、飛沫は蝶ヶ崎へ視線を戻す。
―――蝶ヶ崎蛾々丸には、回想すべき過去がないはずだった。
"受けたダメージを他の場所に押し付ける"、『不慮の事故』と呼ばれる過負荷だけが彼にあった。
不幸な出来事も嫌な思い出も胸の痛みも心の傷も、すべて周囲に押し付けてきた彼には、過去もなければ回想もない。そういう人生を歩むはずだった。
実際、"あの時"まで、蝶ヶ崎はそういった人生を歩んでいた。
『こうやって嫌なことを避け続ければ。痛い思いをすることなく生き続ければ』『自分はきっと誰よりも幸せになれるに決まっている』『人生から嫌なことを取り除けば、最後には幸せだけが残るはずだ』
だから彼は押し付けた。
不幸なことを押しつけて押しつけて、押しつけて押しつけて押しつけて押しつけて押しつけて押しつけて押しつけて押しつけて押しつけて―――気が付けば彼には、何もなくなっていた。
「昔の話をしていたようですが――あなたのことを診ようともしなかったあの病院は、私たちで潰しておきましたから」
なくなっていた、はずだった。
「潰した…って」
「確かにあのときはあたしも加担したが、まさかそんな理由だったとはな」
蝶ヶ崎の突然の告白に、なまえは驚いたように言葉を失う。
そういえば、ある日から自分は病院に行かないようになったが―――その理由が、まさか"そんなこと"だったとは、今の今まで考え付くはずもない。
そして、過負荷故に破壊した飛沫とは違う。
蝶ヶ崎蛾ヶ丸という青年は、確固たる信念のもと1つの病院を廃院にしたのである。
「あなたを幸せにしようともしない病院なんて存在してても意味はありませんから」
幼い頃の蝶ヶ崎と数回しか話したことのないなまえには彼の言っていることがさっぱりわからなかったが、彼の過負荷を知っている飛沫には心当たりがあった。
他人に不幸を押し付けてきた蝶ヶ崎は、なまえのことだけは推しつけられなかったのだ。
―――なまえが蝶ヶ崎にとって『例外』だからである。
しかし、そんなことを幼い自分達は知る由もない。
蝶ヶ崎はなまえを"自分にとっての不幸"として周りに押し付けられなかったあの日からずっと、なまえ自身が自分の幸せだと思って生きてきたのだ。
「私の"幸せ"であるあなたは"不幸"になるべきではありません」
最後に残った"幸せ"はなまえだと、蝶ヶ崎は心の底から信じていた。
そして、周りがそれをどう思おうとも、蝶ヶ崎にとってはそれが真実であり現実である。
――愛だとか恋だとか、そんなものではない。
蝶ヶ崎は、ただなまえの幸せをこの世の誰よりも願っているのである。
「自分への感情も自分の感情も全て他人に押し付けてきた人間がずっと自分の中に持ってたんだ。相当なもんだろうよあれは。これらを踏まえて、何か感想は?なまえ先輩」
「飛沫ちゃんも人のことを言えないよ」
正直者だな、という皮肉を、飛沫は口にしなかった。