木製の机が、鈍い音を立てて中央から真っ二つに折れた。
まるで空手家が試し割りの板を割ったときのように、綺麗に割れていた。
机の上に置かれていた教科書やノート、文具や飲み物は重力に逆らうことなく机だったそれの表面を滑り、床で止まった。
「こんなときでも暢気にお勉強とは、受験生ってのは大変だな」
カツカツと床を鳴らす靴は、箱庭学園では許可されていないハイヒール。
体育館履きなどはあれど、上履きのない学園では革靴でも運動靴でも履物はなんでも良いのだが、床を傷付けるようなものは一般的に不可となっている。
ただ、"一般"という言葉が当てはまらない彼女たちに、そんなものは意味を成さないのだが。
「…飛沫ちゃん」
床に滑り落ちた自身の持ち物を唖然と見下ろしていたなまえは、視界に入った少女の名を呼ぶ。
志布志飛沫。球磨川とほぼ同時に箱庭学園に転校してきた、マイナス十三組である。
「戦挙中じゃ?」
「もう今日の分は終わったよ。アタシの勝ち」
「うっそだあ」
「ああ。嘘だよ」
飛沫は、壊れた机の破片も気にせずなまえの向かい側に、通路へ足を投げ出す形で腰を下ろす。
綺麗な横顔は、口端が上がると同時になまえの方を向く。
「なまえ先輩は球磨川さんと同い年だろうけど、良いだろ?あたしたちの仲だ」
なまえはてっきり飛沫も同じ三年生だと思っていたが、どうやら違ったらしい。
一年生だと飛沫が言うと、なまえは驚いたように目を見開く。
だがすぐにそれでも特に構わないと、なまえは敬語は不要でいいかという飛沫の提案に頷いた。
「その指、どうしたんだよ」
「ああこれ?さっき紙で切っちゃったんだ」
傷はそれほど深くない、となまえは絆創膏の巻かれた指を飛沫に見せる。
その小さな傷を見逃さなかった飛沫の表情が険しいものになる。
なんだか詰まらなそうに軽く舌打ちをした飛沫に、なまえは首を傾げるしかなかった。
「いつからだ?」
「え?」
「あんたの『例外』。自分が"そう"だっていつ気付いたんだ?」
志布志飛沫はかさぶたを剥がすのが好きな子供だった。
治りかけの傷口を見るのが、治りかけの傷口から噴出す血を見るのが好きだった。
だから時にはかさぶたを作るためにわざと転んだりした。
上手なかさぶたの作り方を三歳で極めた。
飛沫の両親は、そんな彼女を気持ち悪いと言って殴った。
勿論親が言うのだからその通りなのだろうと飛沫はわだかまりなく納得した。
もっとも、殴られたら痛い上にかさぶたもできないので、暴力を振るう両親のことは幼くしてちゃんと恨んだ。
二十歳を過ぎたらこの人達を殺そうと彼女は健全に決意した。
「いつ、って…なんでそんなこと知りたいの?」
「あたしと会ったとき、既に自分の異常を理解してたのかがちょっと気になっただけだよ」
飛沫はなまえと会ったとき既に自分の過負荷を"そういうものだ"と認識していた。
それでも飛沫は発育よく成長し、幼稚園入園と同時に少年野球団に参加した。
滑り込みやらクロスプレーやらでかさぶたを作りやすそうだからというのが入団動機だったのだけれど―――しかしほどなく、彼女は自分の周囲で起こる不思議な現象に気付くことになる。『自分の所属するチームには妙に怪我人が多い』『明らかに偶然では片付かない偏りを持って』
否。スポーツをしているのだから怪我をするのはかさぶたでなくとも当たり前なのだけれど―――その怪我の治りが、異様に遅いのだ。
どころか、"むしろ日を追って怪我が悪化しているような"。そんな気付きは実際に正しくて、彼女のチーム内ではなんでもない怪我が選手生命に関わるレベルにまで発展することがままあった。
とはいえ彼女以外もその事実には思い至らない。
当たり前だ。
いるだけで『他人の怪我を悪化させる』『他人の古傷を開く』ことの出来る幼女の存在を、どこの誰が想像できるというのだろう。
『致死武器』。それが、志布志飛沫の過負荷である。
「あの病院でか?先生が、なんか言ってくれたとか」
そんなことが起こるずっと前から、起こった後まで飛沫は病院に通っていた。
ただ、結果的に、彼女が病院に通っていた意味はなかった。
事実、その現象は病気ではないのだ―――彼女自身に何ら被害はないのだから、あくまで開かれるのは他人の傷なのである。
『そうか。あたしが生きているとまわりの皆に迷惑がかかって、まわりの皆が不幸になるのか』『だったら、あたしは精一杯努力して』『他人の不幸を喜べる人間にならなきゃな』
そんな風に決意した飛沫は、あの病院でなまえに会ったことを今日まで忘れたことはなかった。
「うーん。私は別に患者じゃなかったから」
「は?」
当然のように答えたなまえに、どういうことだと飛沫は首を傾げる。
「"あの人"は私を患者だと思ったことはなかったから。会ってはいたけど診てもらったことはないよ」
飛沫自身の過負荷を治すことも正すことも出来なかったとはいえ、"あの人"は"先生"としてこの過負荷に立ち向かおうとした。
自分たちのことさえ初めから見放したわけではない"先生"に最初から診てすらもらえなかったなど―――それほどまでに『例外』の影響を受けた境遇は過負荷だと、飛沫は食い入るようになまえを見ている。
「球磨川さんじゃなくてアタシが過負荷に誘ってたら、入ってたか?」
「入らないよ。私は過負荷じゃないし」
なまえは言い切る。しかし、飛沫にはそれがにわかには信じ難かった。
彼女は疎外されたはずで、迫害されたはずなのだ。
「…………?」
しばしなまえと見詰め合っていた飛沫は何も言わずに立ち上がり、ゆっくりとした足取りでなまえの方へ向かっていく。
その様子を不思議に思いながら眺めていたなまえだったが、突然襟首を掴まれ、驚きの声を上げた。
「し、飛沫ちゃん!?」
返事はない。
飛沫のその細い腕のどこにそんな力があるのかはわからないが、なまえはそのまま持ち上げられ、身体が少しだけ宙に浮く。
二度目の名前を呼ぶ前に、なまえはそのまま本棚へ放り投げられる。
「いっ…!」
「『例外』だろうがなんだろうが、あたしは、あんたの不幸も喜べる人間にならないと。だからあんたは不幸であるべきだ」
本棚にぶつかった衝撃で、本が数冊床へ落ちていく。
なまえは痛みに顔を歪ませながら自身を放り投げた飛沫を見上げる。
とても詰まらなそうだった表情は、心底楽しそうなものになっていた。
「ははっ、『例外』だなんて言われてるけど、ちゃんとあたしでもあんたを傷付けられそうじゃん」
そう、飛沫は安堵の声音を漏らす。
カツカツと床を鳴らす靴音は、どんどんとなまえに近付いていた。