まだ春先ではあるが、それにしては少しばかり寒いとなまえはセーターの袖口を伸ばして自身の手を覆う。
口から吐き出される息が一瞬白く見えたような気がして驚いたが、さすがにそこまでは寒くないらしい。次に吐いた息は通常のものだった。

「早かったな、行橋」

と、声。
その声は、なまえにも聞き覚えのあるものだった。
しかしなまえが"彼"の名を呼ぶ前に、行橋が仮面の下で口を開く。

「まぁね。"エレベーター"を使ったもんだから」

「……ほう。使えたのか」

行橋のなんとなしの言葉に、"彼"は少し関心したように声を漏らした。
だが、期待通りではないと行橋は笑みをこぼしながら「いいや」と首を横に振る。

「"使えるやつがいた"のさ」

"彼"の視線はなまえを通り過ぎ、その横に並ぶクラスメイトへと向く。
――――糸島軍規。
転校生であり十三組でもある糸島は、そんな視線にもいつもの笑みを浮かべていた。

「………なんだか、勢揃いだね」

なまえは、ここに"彼"―――都城王土がいたことを、既に驚いてはいなかった。
高千穂、宗像、糸島ときて―――彼がここにいてもおかしくはないと、むしろどこか納得している。
もしかしたらもうしばらく会っていない元クラスメイトもいるかと思ったが、やはり退場した身。そう簡単に出てくるわけもなさそうだった。

「そりゃそうさ。ここにいないジュウサンが学校に登校してくると思う?」

少しなまえを馬鹿にしたような言い方になまえは気づいているのか無視しているのか(恐らく前者だろう)、特に反応は示さなかった。
そして行橋も、そんな自分に王土の視線が集まっているのに気づき過ぎた口を閉ざす。

「なまえ」

「えーっと……」

王土に名を呼ばれたなまえは、少しだけ困惑した。
王土と会ったときのことを、なまえは勿論覚えている。
そして今、彼は昔会ったときとどこか違う。
不自由にしていな口は王者の笑みを浮かべていて、なまえは王土を"何と呼ぼう"か悩む。
都城?王土?なんだかどちらもしっくりこない。
それは彼が"王"だからか――――それとも、その異常故か?

「都城――くんは、どうしてここに?」

なまえはなんだか違和感を覚えたまま彼の名を呼んだ。
その呼び方に不満があるのかはわからなかったが、王土は少しの間口を閉ざしていた。
しかし今話すべきはそこではないと、王土は思考を切り替える。

「それは、俺が"フラスコ計画"の要だからだ」

「……………………」

やはり――――それか。

「そうだな。最初から説明しよう」

行橋は勿論そんな王土に口を挟む気などないようだし、ついてきたというのに糸島は酷く興味がなさそうだった。
ふと、行橋は思い出す。
自身に対してあれほど良い感情を持っていなかった高千穂。そして、なまえのことを少なくとも嫌ってはいない宗像。
そんな2人があれほどあっさり"ついてこなかった"のは糸島に"何か"があると考えたのだけれど―――

「?」

「………」

チラリと行橋が視線を糸島へ移したところで、心や思考の読めない糸島は、そんな行橋の考えなど知らずその視線に何事かと首を傾げる。
ただ、理由がわかったところで興味など無いのだろう―――行橋もまた、静かに王土の言葉を待った。

凡人ノーマル天才アブノーマルに変化させるための計画。それがフラスコ計画だ」

"天才がなぜ天才なのか"。
それを解明し、"人為的に天才を作り出そう"というものがこの計画の最終目的。
しかし―――元より天才アブノーマルな王土たちに、そんなものは必要ない。
ならば何故、その計画に参加しているのか。

「フラスコ計画の定員は十三名。"十三組の中から更に選抜された"『十三組の十三人』が計画を進めている」

それがここにいる"彼ら"かと、なまえは視線を王土から行橋、そして隣に立つ糸島へ動かした。
しかし両者とも相変わらず表情に変わりはないので、なまえは静かに王土へ視線を戻す。

「その十三名――『十三組の十三人サーティン・パーティ』と便宜上呼んでいるが、この俺を含めた十三名はその計画において実験台であり実験体だ」

箱庭学園の創立は今から、およそ百年前。
しかしその前身である黒箱塾の時代から、フラスコ計画は既に始動していた。
当初は試験官計画と呼ばれていたこの計画も、名前が変わろうと"人間を完成させよう"という最終目的は一世紀以上変わっていない。
―――というよりは、この箱庭学園自体がこの計画のために作られたと言った方が正確だろう。
不知火を代表する数十の財団から国家軍部に至るまでが出資者となり、研究は戦時中にもバブル最盛期にも絶え間なく続けられた。
そして――――そんなプロジェクトも、いよいよ最終段階を迎えている。
歴代の十三組モルモットの中でももっとも異常アブノーマルな『十三組の十三人サーティン・パーティ』。
彼らと計画が、歴史と人類を変える。

「悩むこともなく困ることもなく、誰に相談することもなく誰に助けられることもない。完全に完成された完全なる人類に誰にでもなれる」

行橋は、じっとなまえを見上げながら口を開いた。

「そんな安価な天才アブノーマルを大量生産するための計画さ」

「……難しい話は嫌いだろう。もっとわかりやすく説明してやる」

行橋に口を挟まれたことに関しては特になんとも思っていないのか、王土は再び話を続ける。

「『天才になれる薬』―――小瓶に入ったそんな飲み薬があったとして、大抵の者はそれを飲む。勿論飲まないという選択肢を取る者もいるだろうが、大抵の者は成果を得るためにあえて茨の道を選ばない。否――"選ぶことができない"。『努力が実らず』『がんばっても報われない』。そういう連中のために『天才になれる薬』を作ろうというのがフラスコ計画の概要だ。勿論、薬云々はただの比喩だ」

王土はそこで少し考えるそぶりを見せる。

「"比喩"……意味はわかるか?」

「え、うん…大丈夫」

そこでようやく、なまえは口を開いた。
話が難しくてついていけなかったわけではない。
ただ、フラスコ計画の内容を聞いて、色々と考えているだけだった。

「だが何も、そんな"都合の良い薬"を"何の犠牲もなく"作ろうってわけじゃない。そんなことは不可能で、何かを得るには何かを犠牲にするというのが理だ。具体的には、現在箱庭学園に通う"全校生徒"、彼らを犠牲にフラスコ計画は完成する」

カリキュラムが成立すればまず箱庭生にこそ適用され、そのとき学園は巨大な実験器具フラスコと化す。
なにも最初から実験がうまくいくというものではない。
発現する異常性に耐え切れず、被験者の9割以上が壊れてしまうだろうというのが王土の見立てだった。
コップの中の嵐ならぬフラスコの中の嵐。
だがその被験者の中で数人でも成功例が出れば、それを世界中に反映できる。
その後百億の天才が生まれると思えば、そんなものないも同然の犠牲だ。

「都城くんはどうしてその計画に?」

「……………………」

なまえのその質問が意外だったのか、王土は喋るために開いていた口を閉ざした。
今訊くべきところは、引っかかるところはそこではないだろうと言おうとして、なまえもまた、自分達と同じ十三組アブノーマルなのだということを思い出す。

「(…同じ、か………)」

「…都城くん?」

「ああ…世のため人のため……と言っても信じまいな。他のメンバーはそれぞれ思惑があるようだが、俺は単なるアルバイト感覚だ」

隣に立つ糸島ならまだしも、王土の口からそんな軽い理由が出てくるとは思わなかった、となまえは少しだけ驚いた。
しかしよく考えてみれば糸島には"理由など無い"のだろう。
言われるまま計画に参加し、言われるまま『十三組の十三人モルモット』になっている。
そちらのほうが、彼の理由に関しては納得がいく。
行橋に関しては王土絡みだろうということはいくらなまえでも理解できた。
だとしたら高千穂や宗像の理由はなんだろう、とまでなまえが考えて。

「なまえ。君はこの計画についてどう思う?」

我慢できなくなった行橋が、とうとうその質問を口にした。
そこに疑問をもつ行橋と、もたない王土や糸島との異常アブノーマルの差。
だが確かに、その答えは少なくともこの計画を指揮している理事長には必要だ。

「どうって………」

その質問に、なまえは困惑の表情を見せる。
何故なまえが今その表情を浮かべるのか、質問をした行橋にはわからなかった。

「私は特に、言うことは無いかな」

「え?」

その答えに、質問をした行橋は勿論、他の2人も驚きの表情を浮かべる。
今まで的外れな答えは言えども、答えを出さないなんてことはほとんどなかった。
王土の説明がわからなかったという雰囲気でもない。
そのうえで、なまえは"意見は無い"という答えを示したのだ。
何故、どうして、と今まで疑問を持っていなかった王土までも、なまえを食い入るように見下ろしている。

「そういう計画があっても多分おかしくないんだろうし、実験とか色々大変なんだろうけど…」

「ちょ、ちょっと待って。じゃあ君はフラスコ計画に参加してほしいって言われたら素直にいいですよって参加するっていうのか?」

入学当初の"サイコロ"で参加を認められなかったとはいえ、もしそこで認められていたとしたら―――他のメンバーのように、二つ返事で参加を承諾していたとでもいうのだろうか。
理事長に聞いた限りと、自身のこの目で見てきた今までのなまえの言動を見てきた行橋にはそれが理解できなかった。

「ううん。私は参加しないよ」

そして、早とちりをしただけで、行橋未造は正しかった。

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