突然だがここで黒神家の話をすることとしよう。
名瀬夭歌。
彼女の話をする際にどうして黒神家が出てくるのかというと、彼女のコレは本名ではないからだ。

―――黒神くじら。

それが彼女の本名である。
ただ、彼女の本当の名がそうであるということを知る者は今の登場人物の中には存在しないのだ。
"彼"ならば知っているだろうが、生憎物語を既に退場してしまった"彼"に出番はない。

彼女の話に戻そう。
日本屈指の名家である黒神グループの長女である黒神くじらは学校に行かず、遊びに行かず、外に出ることなく毎日机にかじりついていた。
黒神くじらのもっとも特徴的な異常性アブノーマルをあげるならその禁欲ストイックさである。
充足や幸福にはまるで興味がないと言わんばかりにひたすら学業に邁進し、あらゆる楽しみ、あらゆる喜びから彼女は一定の距離を置いていた。

楽しむことはなまけることで、
喜ぶことはだらけることで、
笑うことは不真面目なことだと、
黒神くじらは心から信じていた。

最低限の食事しか摂らず、味のついた水は飲まず、遊具も玩具も所有せず、意識のあるうちはひたすら勉学に勤しみ、睡眠は一日三時間。
苦行を通り過ぎて拷問のようなライフスタイルが彼女の日常だった。

『素晴らしいものは地獄からしか生まれない』

それがくじらの口癖で、実際彼女はその通りにしていた。
歴史上の天才は多く不遇な人生を送っていて、偉大な発見は大抵劣等感から生まれている。
だから自分も決して幸福であってはならないのだと、黒神くじらはそう考えていた。
だから黒神の長女という立場は、彼女にとって耐え難いものだったのだ。

恵まれた生まれ(こんな恵まれた人生じゃ私は駄目になる)
恵まれた容姿(幸福からは何も生まれない)
恵まれた才能(もっと苦しまなきゃダメだ)
恵まれた環境(もっと追い込まれなきゃダメだ)
どれも(もっと地獄を)これも(もっと地獄を)クソ喰らえ(もっと地獄を!)

自分が幸せであること、自分が優秀であることさえ許せない潔癖さは、まるで悪循環のように彼女の精神を蝕んでいった。
『幸せになるくらいなら死ぬほうがマシだ』―――そんな言葉と共に、家を飛び出した黒神くじらは。
もうそんなことは、微塵も覚えていない。

「あんたはどう思う?――名字なまえ先輩」

「どうって…何が」

「『素晴らしいものは地獄からしか生まれない』。それについて、あんたがどう思っているのかを訊きたいんだ。別に何を言ったっていいぜ?俺は、中身の無いあんたの言葉にイラついたりはしない」

イラつく発言をするだろうということが前提なのか、となまえは少しだけ名瀬から目を逸らした。
―――素晴らしいものは地獄からしか生まれない。
だから名瀬は幸福な記憶を全て消した。
自分が黒神くじらであったことも、もう一切覚えていない。
5年前に記憶を消したあのときに、彼女の人生は始まったのだから。

「そんなのは――――」

名瀬は、なまえの言葉に目を細める。
一字一句聞き逃すまいと。
不幸を追い求める彼女は、不運にも自分に目をつけられてしまった少女の言葉を待った。

「――――当たり前だと思う」

それだけだった。
それが先程の質問への答えだと、名瀬は少し遅れてから理解する。
今―――なんと。

「…先輩。俺の聞き間違いだよな?今、あんた……『当たり前』って、言ったか?」

「聞こえにくいなら、やっぱりその包帯は取るべきだと思うよ」

「いいから、答えろ………!!」

声を荒げた自分に、自分で驚いた。
ハッとしてなまえを見てみるものの、既に遅い。

「『素晴らしいものは地獄からしか生まれない』。そんなのは、当たり前だと思うって、言ったんだよ」

こちらへの配慮だろうか。
先程よりも大きな声で、それでいて聞き取りやすいように一字一句ゆっくりとなまえはそう言葉を口にした。
そこから先へ問いたいのに、名瀬の口はその機能を果たしてくれそうにない。

「素晴らしいものが生まれる前は、いつだって地獄だよ」

「な、にを言ってんのか、悪いけどわかんねーな。つまりあんた、何が言いてぇんだ?」

「本当に不幸になりたいなら、あなたはそのやり方を知ってるはずだよ」

「っ――――、」

なんだこれは、と名瀬は一歩下がった。
下がったあとで、自然と動いた足に気付き、戦慄する。
なまえの言葉に一瞬頭に浮かんだ光景を消し去るように頭を横に振った。
その後の表情は、下を俯いてしまってなまえからは見えない。

「っく……」

「………?」

「っくくく……あははははは!いーじゃんいーじゃん!そういうのが欲しかったんだよ俺は!なーんだやっぱりあんたは十三組アブノーマルじゃねーか!!」

静かな空間に、名瀬の笑い声が微かに響いた。
ひとしきり笑ったあと、名瀬はふう、と静かに溜息のような息を吐いて無表情へ戻る。
そしてそのままなまえを見下ろすように見つめた。
なまえはそんな名瀬を見て、一年生は目つきが悪い生徒ばかりなのかと雲仙と種子島のことを思い出す。
長者原は目隠しをしていたので目つきがどうなっているのかわからなかったが、このままの流れで行くと最強に目つきが怖いのかもしれないと苦笑いを浮かべそうになったところで。
名瀬の雰囲気がガラリと変わったことに気付き、なまえはそちらへ集中した。

「ああ、さっき言い忘れてたんだがよ」

と、名瀬の口角がニィイとあがる。
ゆっくりで、それでいてどこか余裕のある笑みは、まるでこれを待っていたかのような。
そんな名瀬を見上げていたなまえの視界が陰り、随分と長い時間話し込んでしまったな、と腕時計を見ようとして。
ここが窓のない階段の踊り場であったことを思い出した。

「俺に友達を紹介されるときは頭上に気をつけな、名字先輩」


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