「ってことがあったんだけどよ、あんた、種子島くんと仲良くねーの?」
「溺れてたところを助けてもらうくらいには仲良いよ」
「大抵の人間は知らない奴でも助けるだろうよ」
一階へと続く階段の踊り場である。
後ろから声がかかったので振り返ってみれば、なまえが今降りてきた階段の一番上に、腕を胸の下で組む名瀬がいた。
「ま、他にあんたのこと知ってそうなクラスメートもいねえし、こうして直接来たわけなんだけどよ」
「あー…そっか。名瀬ちゃんは十一組なんだっけ」
「なんだよそれ。その言い方、まるで他のクラスになら知り合いがいるみたいな言い方だな」
「…………………」
名瀬のその言葉に、なまえの言葉が続くかと思われたが、しかし。
名瀬の予想とは裏腹に、なまえは突然口を閉ざす。
何か不機嫌になるようなことでも言っただろうか、と不満そうななまえの表情を見て名瀬は少し警戒の色を示した。
同時に、やはりわけのわからない奴だと、目の前の二年生への印象を改めて確認する。
「………それだけ?」
「は?」
怒っているわけではない。
呆れているわけでもない。
どこか期待を含んだその声音に、名瀬は本気でわけがわからなかった。
「もっとなんか無いの?名瀬ちゃん」
「え?もっとって…なんだよ。そんなに罵って欲しいのか?」
「遠慮しておくね…」
それは御免だとでもいうようになまえは首を横に振る。
名瀬は決して焦らしているわけではなく、本当にわからなかったのだ。
なまえが自分に何を期待し、何を待っているのかが。
「驚いたりしないの?私、名瀬ちゃんの名前知ってるんだけど…」
「あー……あー…………」
少しでも悩んだ自分が馬鹿だったとでも言うように、名瀬は言葉に困った。
「滅茶苦茶どうでもいい」
つい本音が出てしまうほどに。
「…………名瀬ちゃんって友達いなさそうだよね」
「なんでバレたんだ?」
見るからに落胆した様子のなまえがそう床へ向けて呟けば、名瀬は不思議そうに首を傾げるだけ。
まあいいかと気を取り直し、持って行かれたペースを取り戻そうと切り替えた。
「にしても酷いなあ先輩。俺ってばガラスのハートだからすぐ傷ついちゃうんだよね」
「………防弾ガラス?」
「容赦ねえな」
まあいいかと、その言葉は名瀬に響かない。
「そんな先輩に、あとで俺の数少ない友達を紹介してやるよ」
「そっか。それは嬉しいな」
「そうかい。それは良かった。まあ、俺の友達をあんたに紹介するのは最終手段さ。その前に俺と仲良くなろーぜ。名字先輩」
「えっと、お断りするのは有り?」
「無しだ」
相変わらずの笑顔だな、と名瀬を見上げながらなまえはぼんやりと考える。
なまえは知らないが、名瀬夭歌は普段あまり笑わない。
その包帯のせいで表情など見えないに等しいというのに、それに加えて言葉にもあまり感情を乗せないのだ。
誰も、彼女が今怒っているのか悲しんでいるのか笑っているのか喜んでいるのか、簡単にはわからない。
しかしなまえの視線の先にいる名瀬は、面白いオモチャでも見つけたかのように笑っていた。
それで遊ぶというよりは、それをどうしようかと考えることが楽しいとでもいうように。
「名瀬ちゃんは十一組なんだっけ」
「だからそうだと言っただろ」
「じゃあ、名瀬ちゃんは天才っていると思う?」
いつか鍋島にされた質問を、なまえは名瀬に問うた。
どうしてかはわからない。
しかし、もしかしたらなまえも、種子島と同じように頭のどこかで名瀬が"十一組"にいることに違和感を覚えているのかもしれなかった。
そして、そんな特別体育科とも言われる"特例組み"に在籍している名瀬夭歌は。
「はあ?何言ってんだお前。天才はいるぜ」
そう、即答した。
名瀬は、一瞬自分の脳裏に見知らぬ黒髪が流れた気がしたが、知らないふりをする。
「じゃあ逆に俺からの質問だ。名字先輩よぉ。あんたは天才ってどういう奴だと思ってるんだ?」
「そりゃあ……凄い人?」
「まああながち間違ってねえが、つくづくあんたが馬鹿だってことを思い知らされる会話だな」
もはや呆れるのも面倒だと言うように、名瀬はなまえの言葉を飲み込むように首を縦にゆっくりと振った。
先程まで浮かんでいた楽しげな、それでいてどこか不気味な笑みは消えている。
その無表情のまま、威圧をするかのように名瀬はなまえを見下ろした。
「自分の努力を才能の二文字で片付けないで欲しいって奴、よくいるだろ?そう言う奴に限って天才なのさ。天才は努力の仕方を知ってる。努力をすれば報われる。だからこその天才だ。普通は努力したって天才ほどには報われない」
そんな地獄はどんな気分だろうなあ、とどこか羨ましそうに名瀬は呟く。
「だけどよ、悲しいことにあんた達異常は努力をしても人並み以下にしかならない。異常なまでにある一点に特化した代償はかなりのものだ」
「そんな風に言うけど、名瀬ちゃんもそこに入ってるんでしょう?」
「…………………」
名瀬が、包帯の下で言葉を詰まらせたのがわかった。
息の吸い方を一瞬だけ忘れたとでもいうように、名瀬は今何が起こったのかが理解できなかった。
しかしすぐに思い出す。
時が止まってやしなかったかと時計を確認したくなったが、生憎此処に時計は無い。
「あまりにも唐突に核心をつくものだからちょいとビビッちまった。本当は馬鹿じゃないのか?そうやって自分を隠して身を守ってるだけなのか?」
いいやアンタは馬鹿だな、となまえの言葉も待たずに名瀬は言葉を続けた。
「残念ながら俺は努力をしたさ。努力をして努力をして努力をした。全てを棄てて這いずるように生きてきた。俺は自分の望みのためになんでもした。不幸に不運に不遇に不憫になりたかった。なるために努力した。だってよ、先輩」
時間の訪れを伝えるチャイムが、本日何度目かの音色を鳴らす。
しかしそれが何度目だったかなど数えていない。
それに今はそんなことはどうでもいいと言った風に、なまえと名瀬は向かい合っていた。
「素晴らしいものは、地獄からしか生まれないんだ」
その目に、幸福は無かった。
あらゆるシアワセを、その笑みは否定していた。
不幸を愛しているとでもいうように、少女はそこに存在していた。