(阿修羅)

ぼんやりと、この空間でこうして向かい合ってからどれくらいの月日が流れたのだろう。
なまえはふと思い出そうと思考を巡らせたが、遡るのも面倒だとすぐに止めた。
男は酷く不安定だった。怯えていると思えば怒りだし、かと思えば笑い出す。
狂気がコチラへと誘うが、なまえはそれを追い払う術を知っていた。
だから彼が一人で狂っているこの光景は酷く滑稽だった。

「なまえ」

それが私に与えられた名だと伝えたのはつい先日のような気もする。
男は初めて言葉を覚えた赤ん坊みたいにひたすらその単語を繰り返し呟いていた。
こちらを呼んでいるわけではないそれを、なまえはただ黙って聞いているだけだった。

「阿修羅」

次に男は自分の名を名乗った。
しかし、なまえはその男の名をとうに知っていた。
初代"鬼神"阿修羅。
死神八武衆最強の職人であり、恐怖を司る狂気。

「なまえ」

しばらくして、阿修羅はなまえへ触れようと手を伸ばし始めた。
その手を取ろうとしないなまえの目の前で、阿修羅の手は何かに弾かれ傷を作る。
―――鬼神阿修羅は死神に負けた。"規律"を司る狂気の象徴に。
そして彼は死武専の地下に封印されている。
なまえは、阿修羅の封印が解けないようこの部屋に入るものを排除するという命を死神から受けているのだ。
否。命というより、それは契約。

「阿修羅。何がそんなに怖いの?」

「なまえ。全てだ。俺には全てが怖い」

「自分自身も?」

「ああ。お前自身も」

狂気が、そんな阿修羅を笑うように部屋の隅でケラケラと歌う。

「なまえ。お前は何も怖くないのか?」

「阿修羅。私は何が怖いんだろうね?」

「わからない。俺は全てが怖い」

「理解出来ない。私は全てを知らない」

怖いと言ってその大きな手で顔を覆い隠すくせに、泣いているわけではないらしい。
その覆った先にあるものは恐怖を象徴する暗闇だというのに、それが心地良いとでもいうのか。
阿修羅の足元で、狂気が歪む。

「阿修羅。あんまり怯えてると恐怖で心臓が止まるよ」

「なまえ。この俺をこれ以上怯えさせてどうするつもりだ」

「あなたの恐怖は死神のはずでは?」

「お前の対象も死神のはずだろう?」

ケラケラと笑う。それは、狂気ではなく阿修羅自身。
その手が届かないと知っているはずなのに、阿修羅はなまえへ手を伸ばす。

「なまえ。俺が手伝ってやろう」

「阿修羅。私は一人で大丈夫」

なまえは立ち上がる。
なまえの足元で揺らぐ狂気を踏みつけながら阿修羅に背を向けて。

「なまえ。どこへ行く?」

「あなたの居ないところへ」

「何故」

「あなただって、きっと私の居ないところへ行く」

「待て。なまえ」

「阿修羅。あなたも平気でしょう」

「どうしてそう思う?」

「あなたは強いから」

一人は怖い。でも二人も怖い。誰も信じられない。誰とも安心できない。
恐怖。ただ切り離された魂は、狂気を蔓延させていく。
あるいは恐ろしく。あるいは脅威となり。怖がるそれは酷く馬鹿馬鹿しかったが、狂気はそれすらも飲み込んでいく。
阿修羅は泣かない。ただ怯えているだけ。
それが恐怖の象徴であるのだから、人間が狂うのも仕方の無いことである。

「なまえ。俺が強い?」

「阿修羅。弱いと思ってるの?」

「俺は恐いんだ。ただひたすらに。そんな俺が強いわけがない。怖い。強いのは恐い。弱いのは怖い。いやだ。なまえ。こわいんだ」

「………………………」

なまえは返事を口にしなかった。
振り返った阿修羅の顔はその手で覆われていて見えなかったが、何故だか泣いているような気がした。

「なまえ。なまえ」

狂気は恐怖を形にしていく。
阿修羅を取り囲むように。阿修羅を拒絶するように。恐怖を受け入れるように。
なまえの頬を狂気が撫でるが、それをなまえは平然と払いのけた。

「なまえ。なまえ。なまえ」

まるで最初に戻ったみたいに、阿修羅はなまえの名を呼び続ける。
その顔は手で覆われたまま。
きっと彼はこれからもずっとなまえの名を呼び続ける。
それがわかるから、なまえはなんとなく、再び同じ場所へ腰を降ろして、彼が名を呼んだのと同じ数だけ、彼の名を呼ぶことにした。

寸分の狂い


(恐怖は何度もこちらへ呼びかける)



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