(鬼灯)

閻魔殿は広くて大きいが、だいぶ地理はわかるようになってきたと思う。
ただ肝心の"閻魔様"にまだ一度も会えてないので、一度くらいは会っておきたいと亡者の格好のままふらふらと閻魔殿の中を歩いて行く。
この時間帯は普段よりも鬼が少ない。外の仕事の時間なのか、ただ時間帯的に少ないのか。
そういうシステムはよくわからなかったが、少ない方が"あの鬼"に会わなくて済むだろうと私はこの時間を好んで閻魔殿へやって来ていた。

「あれ。なまえちゃん。久しぶり」

そんな声が後ろから聞こえて、私は即座に全速力でこの場を去るべきなのに身体が一瞬硬直する。
そうなってしまえばもうどこかへ行くことは許されないので、私は今日の平穏を諦めて後ろを振り返った。

「どうしてここに?」

そんなことを訊けば、いつか聞いたような「女の子がいるところなら僕はどこにでも行くよ」なんて軽い言葉が返ってくるものだから、どう反応していいものか困惑する。
私の困惑を悟ったのか、神獣は優しく微笑んだ。

「まあ、今日は頼まれてた薬を届けに来たんだけどね」

「薬…?」

「なまえちゃんも欲しい?僕が作った薬」

「いや……」

仮にも神獣が作った薬だ。変なものではないだろう。
しかし目の前の彼が作ったと言うだけで何か変なものが入っているのではないかと疑問に思ってしまう。
差し出された神獣の手に乗っている黒い丸い粒を見下ろして、私はゆっくり首を横に振った。

「そう?まあ…でも薬は後で良いかな。なまえちゃん、新しい素敵なお店を見つけたんだ。一緒に行こう」

「いやです」

「そう言うと思った。ほら行こう」

私の意思は、と反論する余地も無く神獣に腕を引っ張られる。

「え、ちょっ」

それは引っ張りすぎだろう、と勢い良く腕を引かれ、私はバランスを崩して前のめりに倒れそうになる。
目の前に神獣がいるのだ。勿論、私が床に倒れることは無かった。
そのまま神獣の腕の中へすっぽりとおさまり、何故か背中に腕が回される。

「は、白澤さん!」

「危ないじゃないか!女の子に当たったらどうするんだよ!!」

驚いた私の声の後に神獣の声が続くものだからてっきりそれは私への言葉かと思われたが、近くにいるにしては声が大きすぎる。
それにそれはどうも"女の子"へかけた言葉とは思えなくて、何事だろうと神獣が怒鳴った方角を見た。

「『危ないじゃないか』じゃないですよ。狙ったんですから『危ない』のは当り前でしょう」

こちらこそ危うく苦虫を噛みつぶしたような表情になるところだった。
視界の先には、私を"亡者"と思い込んでいる鬼。軽く後ろを振り返ってみれば、私が先程まで立っていた場所には金棒が深々と突き刺さっていた。
というか床に金棒が突き刺さるってどれだけの力で投げればこうなるんだ、と視線を再び鬼へ戻す。

「え。なに、お前女の子にまで手を出すようになったわけ?そこまでクズじゃないと思ってたけど、そういう奴だったんだな」

「それはこちらの台詞です。あなたが見境のないクズでゴミみたいな奴なのは知っていましたが、亡者にまで手を出すなんて、落ちるとこまで落ちましたね」

「え?僕、亡者に手を出したことなんて無いけど」

「え?」

「え?」

瞬間、私を抱きしめていた腕の力が緩んだ。
私は神獣の胸板を押し返し、するりと彼の腕から逃げだして、二人から距離を置く。
二人の視線は当然そんな私へ向き、状況の理解出来ていない4つの眼が私という存在を貫いた。
先に状況を理解したのは神獣のようで、すまなそうにこちらへ笑みを向ける。
そんな表情を浮かべられても困る、と困惑した表情を返せば、別方向からの鋭い視線に息が止まりそうになった。

「あなた…亡者じゃないんですか?」

鬼が、警戒と困惑と少しの敵意の色を浮かべながらこちらを観察するように見る。
まさか二人が出くわし、こんな状況になるとは思っていなかったのでどうしたものかと考え、考えても無意味だと笑みを浮かべた。

「あーあ。せっかく騙せてたのに」

目が一瞬、本来のものに戻りかけ、慌てて少しの間目を伏せる。

「……知ってたんですか?」

「知ってたというか"わかる"からさ…お前も当然"わかってる"と思ってたんだよ」

「"わかる"………?」

「そこら辺はなまえちゃんから直接聞いたほうが良いかもね」

もう失態は犯さないという意思表示なのか、神獣は私へ話を振る。
鬼の視線は神獣からこちらへ向き、どうやら説明しないと解放されなそうだった。

「……私はかつてイヴを騙して始まりの二人に禁断の果実を食べさせた蛇の化身」

「蛇の化身…?あの蛇はリリスさんという話を聞いたことがありますが」

「さあ?元々私はリリスの一部だったのかもしれないし、他の何かだったのかもしれない。でも私は"罰を受ける存在"として存在してるから、今は誰でも無いよ」

なまえという名をくれたのは確かにリリスだった。でも私は別に、"こういう存在"としてここにいるだけで、それ以上でも以下でもないのだ。
この亡者の格好ももう意味を成さなくなってしまったな、と案外気に入っていた服を軽く触る。

「人間は私に騙される種族だから、私の嘘を見抜けないのは仕方ないよ。あなた、"人間だった"んでしょ?」

「…どこでそれを」

「私の正体に気付かなかったっていう事実だけで十分」

「それすらも嘘では?」

「どうだと思う?」

鬼が黙る。その表情はいつも通り何も無いのだから、鬼が何を考えているのかがさっぱりだった。
鬼は数歩その場からこちらへ歩いてくると自身が先程投げた金棒の前で立ち止まり、それを一気に引きぬく。
その馬鹿力は健在だったが、次に何をしてくるのかが全くわからない。

「そうですか。とりあえず一発殴らせて下さい」

そうは言うが。
返答も出来ずに殴られた神獣が地面に埋まる。
一体何事だ、と私は声も出せずにその光景を見て目を丸くした。
確かに二人は仲が悪そうだったが、こうも容赦ないのか。相手は曲がりなりにも神獣だというのに。
短いうめき声のようなものを出して地面に埋まった神獣はどうやら気を失ってしまったようで(むしろそれだけで済んだのが凄い)それ以降一言も発しなくなってしまった。

「それと、なまえさん、でしたよね。すみませんでした」

「……………え?」

先程目の前で起きた光景に呆気にとられたこともあってか、私の脳はすぐに鬼の言葉を処理してはくれなかった。
今鬼は何と言ったのだろう、とほんの数秒前の記憶を掘り起こし、その言葉を脳内で反復する。
すみません―――すみませんと言ったのか?今。この私に、何を謝った?

「すみませんでした…って。騙してた私が謝るならまだしも、どうしてあなたが謝るの?」

「亡者で無いとは知らずに埋めたり吊るしたり殴ったり沈めたりしてしまいましたから」

「………………………」

そういえばそんなこともあったな、とつい最近の出来事を一瞬で振り返る。

「でも、私は騙した罪で神から罰を受けていて他の罰を受けることは決して無いから、痛みや苦しみは全然感じないんだよ。だから謝る必要は」

「それなら尚更です。神があなたに罰を与えているというのに私があなたに罰を与えようなどおごがましいにも程が有ります」

それは上げているのか貶しているのかわからない言い回しだな、と複雑な表情になった。
鬼は金棒をしまうと(一体どこにしまったんだ)、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
わけのわからない思考回路の鬼に、相手は元人間だというのに何故か怯んでしまい、私の足は地面に縫いつけられてしまったかのようにその場から動かない。
そうこうしている間に鬼はあっという間に私の前までやって来て、じっとこちらを見下ろしてきた。

「………………………」

「う、」わっ!

突然、先ほどのように腕を引っ張られ、再びバランスを崩して前のめりに倒れそうになる。
しかしやはり先ほどと同じく、今度は鬼の腕の中へすっぽりと収まり、私の背中へ腕が回された。
顔も似ていれば行動も似ているのかこいつらはなどと考えて気を逸らそうとしたが、やはり頭の中は混乱している。

「な、何を」

「いえ。痛みや苦しみは効かないというのならこういうのはどうかと思いまして」

そう耳元で喋られるものだから、反射的に肩がビクっと跳ねた。
人間の姿になって耳というものは便利だと思ったが、そこに刺激がいくことには慣れていない。
感覚を無視しようとすればするほど敏感になり、鬼の吐息一つで背筋がゾクゾクしてしまう。
背筋を蛇の肌で撫でられたような悪寒を覚えると誰かが言っていたが、今まさにそんな感じなのかもしれない。蛇は私だというのに変な話だ。
その感覚がどうにも慣れず、早く離せという意味を込めて鬼の胸板を押し返すが、その細い体のどこにそんな力があるのか(あの神獣もそうだが)ビクともしなかった。

「効果はきちんとあるようですね」

鬼のタイミングで腕を離され、私は慌てて距離を置く。
何故か顔に熱が集まっていたが、鬼は涼しい顔でこちらを見下ろしていた。

「効果……って」

「いえ別に。仕返ししようとかそんなこと、全く思っていませんから」

「(根に持つタイプかこいつ…!)」

神獣の言うことが本当なら、私が男だったらあのように金棒でそれこそボコボコにされていたのかもしれない。
人間の女の姿で良かった、と胸を撫で下ろそうとして、今の鬼の行動を思い出していやいやいやと首を横に振る。

「そういえば私の名を知りたがっていましたね。鬼灯と言います。よろしくお願いします、なまえさん」

鬼のような顔で自己紹介を終えた鬼はそれだけ言うとくるりとこちらへ背中を向け、地面に埋まる神獣をチラリとも見ずに去って行った。


地獄に嘘を注ぐ


(一刻も早くここから出ないと…!)



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