(鍋島猫美)
「あれ。名字さん。今日も来たんですか」
「こんにちは阿久根くん。お邪魔だったかな?」
「いえ。お邪魔だなんて。それに、鍋島先輩が許可しんたんでしょう?誰も文句はいいませんよ」
阿久根高貴は鍋島猫美のことを『鍋島先輩』と呼ぶときもあれば『猫美さん』と呼ぶときもある。
しかし今の時点では、圧倒的に前者が多いことを鍋島自身は知っていた。
そして、彼が好意を寄せている生徒会長のことは『めだかさん』と敬意を持って呼んでいることも知っていた。
だとすると、彼が呼ぶ『名字さん』にはどんなものが込められているのだろう。
「あ、猫美ちゃん!着替えるの早かったね」
「当たり前や。何年着てると思っとんねん」
何の気なしに鍋島がなまえの頬を引っ張れば、「いひゃいひゃい」と呂律の回らない悲鳴を上げた。
それがどうにもおかしくて、「スマンスマン」と全く悪びれていない謝罪を口にしながら鍋島は喉の奥で笑う。
「お二人は本当に仲が良いですね」
「阿久根くんもあの、なんだっけ、人吉くん?と仲良いよね」
「はっはっは。まさか」
生徒会に入ったとはいえ、阿久根は身体を動かしに鍋島の許可を貰ってこうして柔道部にたまに顔を出していた。
柔道部のプリンスが生徒会のプリンスとなり、その人気に拍車がかかったのか、たまに阿久根が顔を出すとギャラリーも多くなる。
別にギャラリー達は活動を邪魔することもないので鍋島が許可をして部活動の場へ入れていた。
それなのにも関わらず、どうして阿久根はなまえにばかり話しかけるのだろう。
鍋島は、目の前でなまえと阿久根が会話をしているのをぼんやりと眺めていた。
「それじゃ、おれはまだ基礎練が残ってるんで」
「あ、うん。頑張ってね」
ヒラヒラと手を振って、阿久根が練習へと戻る。
ギャラリーの中に入る阿久根のファンは自分に手を振られたわけでもないのにキャーキャーと騒いでいた。
いつもは多少の歓声は良いと見逃しているものの、今だけは何故か苛立ち、鍋島はブンブンと首を横に振る。
「なまえは随分阿久根クンを気ぃかけるんやな」
「え、そう?」
肯定する意味で頭を縦に小さく振れば、なまえは「そうかなあ」と首を傾げた。
なまえのことだ。本当に他意はないのかもしれない。
しかし鍋島にはそれを確認する術が無かったので、仕方なく開きかけた口を閉ざした。
なまえがこうして柔道部の活動を見学しに来るのは別に今日が初めてではない。
1年の夏に大会を見に来たのがきっかけで、屋久島に泳ぎを教わるとき以外は大抵ここにきていた。
初めはギャラリーと一緒にこちらを見ていたものの、やはり十三組というべきか他のギャラリーに怪異なものを見るような視線で見られていたため、こうしてもっと近くにくるよう鍋島が招きいれたのである。
普段の、何を考えているかわからない得体の知れないような彼女ではなく、柔道を見ている彼女はなんだか楽しそうに見えた。
「見るのはええけど、また『私もやりたい』なんて言いだすんやないで」
「うん……猫美ちゃんがあそこまで手加減してくれないとは思わなかった」
「あれでもしたほうやで、手加減」
あれは他校と練習試合をしたときだったか。なまえが練習試合を終えた猫美に『私もさっきのやってみたい』だなどと言ってくるものだから、猫美は片付け終わっていたマットを取り出しその上でなまえに技をかけたのである。
なまえが柔道について何の知識も無いのは知っていたが、あの結果はあまりにも散々だったと鍋島は思い出して静かに笑った。
「せやけど、見てるだけで楽しいんか?」
ふとなまえが何かに気付いてそちらへ手を振ったので、何だろうと鍋島もそちらへ視線を送る。
と、やはりというべきか、視線の先には笑顔で手を振る阿久根がいた。
基礎練が終わったのか、少し離れた場所にあるタオルを取りに行く阿久根を、鍋島はじっと見つめている。
「そうだね。私はこういうのを見る機会がなかったから、とても楽しいよ」
「なるほどな。なまえは柔道を見るんが好きでここに来とるんやな」
言っていることは別に皮肉でもなんでもない。それなのに、どこか棘を含んだ声音になってしまった。
鍋島はしまったとなまえを見る。
そんなつもりはなかったとなにかフォローを入れようとしたが、なまえは不思議そうな表情でこちらを見上げていて。
「え?違うよ猫美ちゃん。私が好きなのは猫美ちゃんだよ」
普段通りに平然と、鍋島の前にいるなまえは猫美へ視線を送っていた。
「興味がないから見る機会がなかったんだよ。私は猫美ちゃんがいるから、こうして見に来て楽しんでる」
突然の、予想もしていなかったなまえの言葉に、鍋島は思考が停止したように固まっている。
しかしなまえはそんな鍋島に気付いていないのか、じっと鍋島の言葉を待っていた。
「猫美ちゃん?」
「っ……アホか!んな恥ずかしいことこんなとこで言うなや!!」
「なんで怒られてるの…」
「しばらく黙っとき」
「いひゃいひゃい」
頬を先程よりも思いっきり引っ張ってみれば、なまえの間抜け顔が鍋島の視界に入り、耐え切れずに噴出す。
それが不満だったのか、なまえもあいてる手で鍋島の頬を引っ張り、部活動中であるにも関わらず、しばらくその攻防を続けていた。
反則負け
(王でも勝てないんわあんたくらいや)