Knock


「どうしたの?おねぇさん」

本来ならこんなに気安く知らない女性なんかに声をかけたりしない。 
見るからに俺よりも年上で、こんなガキみたいな高校生の俺の出る幕なんかじゃないってことくらい解っていた。けれど、そんな思いすらもぶっ飛んでしまうくらい、目の前のこの人の涙にはひどく惹きつけられるものがあった。


いつものように、ハーフサイズのバスケットコートが設置されている家の近所の公園へ自主練習にやって来た時のこと。時刻はもう夜の8時を少し回った頃。コートの周りにはライトがいくつか設置されているとは言え、こんな時間の公園になんて他の使用者なんかほとんどいない。この半分廃れそうな公園のベンチで、彼女は一人うつむいて座り込んでいた。
初めは体調でも悪いのかと思ったが、どうやらそうではなく、ただただ静かに涙を流す彼女。
目の前でこんなにも悲しそうに号泣している女の人を見たのは生まれて初めてで、一瞬、ギョッと腰が引けた。

俺の姿には気付いているはずなのに、彼女は俺の存在が見えないかのようにその場からも一向に動こうとしない。
人目を憚らず、ただひたすらに涙を流す彼女の方が気になって仕方がないのは、俺の方だ。
どうするべきか頭を巡らせてみた結果、それでも関係なく練習を開始しようかとも思ったが、知らないふりをして放っておくには彼女の姿があまりにも痛々しく、とうとう居た堪れなくなった俺はそっと近付いて声をかけた、というわけだ。


「……るさい……あっち行って……」

「でもさ近くでそんなに泣かれちゃ、練習、落ち着いて出来ないんすけど」

俺に対して目線を一切合わせることなく、彼女は消えそうな声でそう吐き捨てた。
可愛気のない言葉に、面倒くせぇな、そう思ったのも半分。けれど、不思議と彼女をそのまま捨て置いて練習を始めることが出来なくて、俺は少し距離を離して彼女と同じベンチに腰を下ろした。
余計なことを言うのはおそらく逆効果だと悟って、ひたすらに黙って彼女が泣き止むのを待つ。
彼女が微かに鼻をすする音だけが、薄暗いその公園内に響き渡った。


時間にしてどのくらいだろう。
しばらくすると、小さく消えりそうなか弱い声で、「ありがと、傍にいてくれて」と、唐突に彼女の声が微かに耳に届いた。

「別にいいんすけど……落ち着いた?」

「……うん、ありがとう。何も言わないでいてくれて」

「そっか。なら良いけど。んじゃ送ってく」

「は?いいよ、そんなの……そこまでしてもらう義理はないし、そもそも初対面でしょ?名前も知らない相手にそういうこと言っちゃダメ」

さっきまで泣いていた女とは思えないほど、芯の通った意志。俺は単純にそこでも興味が沸いた。こんな彼女をあそこまで泣かせる原因とは何か、無性に気になってしまう。
ここで彼女と別れるのは正直惜しいと思ってしまった。それが下心なのか、そうじゃないのかなんて解らない。けど、ただ今は彼女を一人にしたくないという気持ちと、俺自身、もう少し一緒にいたいと思ってしまった気持ちが織り交ざって、普段は絶対しないであろう行動を俺にとらせてしまう彼女に、ひょっとしたら、もうこの時すでに恋に落ちていたのかもしれない。

「だってもう暗いし、こうして会って話したんだからもう初対面じゃねぇだろ?」

「なにその理屈、変なの。君、バスケしにきたんじゃないの?」

「いいんだよ、今日は特別仕様で。小さいこと気にするくらいなら、可愛く送られてよ、おねぇさん」

「……ふふっ生意気。じゃ途中まで、ね?」


泣き顔から一変、小さく笑ってそう言った彼女の顔に釘付けになる。

「――っ!」

泣き腫らした瞼、真っ赤な鼻。悲しさと儚さを纏った彼女の姿に不意に咲いた笑顔。
俺は言葉を失った。
芯が通っているように見えて、彼女の愛くるしい表情、そしてこんな人気のない暗い場所で泣き続ける微かな危うさ。
一瞬にして、もっともっと彼女を知りたくなった。
これを世の中では一目惚れだとかいうのだろうか。そんな経験、俺には今まで一度だってないから解らない。

お互いにベンチからゆっくり立ち上がって、公園の出口へと向かう。
その間、ポツリポツリと断片的に会話を交わした。

「家、近いんすか?」

「うん、近く」

「よく来るんすか?ここ」

「ううん、初めて来た」

「なのにあそこで泣いてた?」

「もうこの時間だったら、誰も来ないと思ったんだけどなぁ」

「けど、俺が来た?」

「そう、予想外」

「かははっ」

並んで歩く俺と彼女の間に微かに生じる距離感。この距離感は心の距離と等しい。この空いた距離を詰めるにはどうするべきか、俺には解決策が解らない。
ただ一つ言えることは、もう彼女には二度と会う機会がない可能性が高いということだ。
大人しく家の前まで送らせてくれるとは思えない。どこの誰で、名前が何というのかも解らない。高校生の俺を真面目に相手してくれるとは到底思えない。
だったら今、どうにかしなければと焦りに近い想いが生じる。

「あの……」

「ん?」

「連絡先、聞いてもいいすか?」

「え、なんで?」

「また、あんな風に一人で泣くとつらいかな思って」

「……なに?慰めてくれるの?君が?」

「信長、清田信長」

「え?」

「名前。だからおねぇさんの名前も教えてくれよ」

俺の半ば強引なアプローチに、彼女は驚いた表情を露わにしていたが、その表情からは不思議と嫌悪感は伝わってこなかった。
こういうやり方が正解だったのか、自信はない。けれど、解ってくれよ、俺だって必死なんだ。
祈る気持ちで、彼女の言葉をジッと待つ。ドキドキと胸の鼓動が逸る。

「……佐藤静。よろしくね、信長くん。090……」

「あ、おい!待て、待て!!!」

「あはは!」

慌てて携帯電話をポケットから取り出して、彼女の名前と番号を登録する。
柄にもなく少し指が震えたのと、無意識に顔が緩んで仕方がない。
とりあえず彼女との繋がりが出来たことにほっと安堵する。まずは第一関門クリアか……。
しかし、本題はこれからだ。

「なぁ、訊いていい?」

「ん?」

「泣いてた訳」

「あ〜……気になるよね、やっぱり……別に隠すことじゃないんだけど、付き合ってると思ってた彼に、本命がいたっていう、どこにでもありそうな話」

「そっか……」

想像していなかったわけではない、こういう理由があの涙に隠されていたのは。
恋愛関係のもつれか、大事なモノを失ったのか、それくらいの予想は俺の中でも立てていたけれど、案の定の結果に、少し面白くなかった。
あんな風に綺麗な涙を、かつての恋人を想って流す。それほどまでに好きだったのかと思うと、胸の中がチクりと刺さった。

「好きだったんすね、すごく」

「うん、好きだった。けど、全然気が付けなかった。私は彼の何を見てたんだろう、って思うと情けなくて、悔しくて、さ」

「悪いのはその男だろ?」

「ううん。それを見破れなかった私もバカ」

「そういうもん?」

「そう、そういうもん」

「俺には解んね。どう考えても静さんを泣かすそいつが悪ぃと思うし、俺なら絶対泣かせないのに」

「ははっ、頼もしいなぁ〜、信長くん」

俺の素直な気持ちをストレートにぶつけたつもりだったが、彼女は大人の対応でさらりと笑ってかわすだけ。
そこが子供と大人の差なのか。圧倒的な対応の差に少し心が折れそうになる。
静さんにとっては、俺はただのガキにしか映ってないことくらい解っている。けど、俺だって諦めるわけにはいかない。


「あ」

「なんすか?」

「着いちゃった」

「へ?」

「家、ここなの。このアパート」

「あ……そ」

予想外の展開だった。
まさか家の前まで送らせてくれるとは思っていなかった。初対面の男にそうやすやすと自宅がバレるようなことはするタイプじゃないと思っていたが、俺の顔を見ながら、「信長くんの話、面白いからついつい家の前まで一緒に来ちゃった」と、屈託のない笑顔を言う彼女。
少しは期待してもいいということなのか……。

「なぁ、これからも連絡とかしてもいいわけ?……というより、してくれたら嬉しいんすけど」

「……ダメだったら、連絡先も教えないし、家だって教えないと思うんだけど」

「だ、だって!俺、そういうの解んないんすもん」

「ふ、ふふ、可愛いね、信長くん。けど、今日の私は君に救われたよ、本当だよ、じゃあまたね。信長くん」

「……」

最後の彼女の言葉に、俺は言葉を失う。
こんな時にすら、気の利いた一言さえも言えない。恋愛初心者の俺が出来たことといえば、ただアパートの部屋の扉の中へ消えていく彼女の後ろ姿を見つめながら、胸の鼓動を早くすることだけ。
好きだ。
この気持ちだけは、まぎれもない事実。
今日、初めて会ったとか関係ない。惚れてしまった俺の負けだ。

*

あれ以来、俺と彼女は頻繁に連絡を取るようになり、幾度となく彼女の部屋にも遊びに行った。
けれど、それ以上のことはない。ただ部屋の中で共に過ごすだけ。
男子高校生の俺が、密室で好きな人を目の前に抑えられない欲望を感じないわけではないが、手を出せないのには大きな理由が一つ。

「なぁ、俺、好きなんすけど、静さんのこと」

「え〜また言ってるの?」

「ひでぇ!本気だっての!何度言えば信じてくれるんだよ」

今日こそは進展を、と意気込んで部屋にやって来た。
俺の想いをストレートに告げるも、彼女はいつも笑ってかわすだけ。毎回それが歯がゆくて、意を決して彼女の肩を背後から抱きしめようと腕を伸ばす。
けれど、それすらもするりと身をかわされてしまった。

「なんでだよ、何がダメなんだ?俺が高校生だからか?それとも、静さんは、こういう俺の姿見て、遊んでんの?なんなんだよ、解んねぇ」

逃げて行こうとした彼女の腕を掴んで、力強く自分の胸の中に引き寄せる。そして、上から顔を覗き込むと、彼女の唇にそっとキスをした。
拒まれるかもしれないと思ったが、静さんは俺のそれを静かに受け止めてくれた。

「なんなんだよ、解んねぇ……けどぜってぇ諦めねぇから」

「……」

俺の苛立ちを受けても、彼女は何一つ言い返してこない。
彼女の気持ちが全く見えない。年上の女性に惚れてしまった経験不足の俺の負け。翻弄され続け、一体どうしたらいいのか解らない。
ただ好きだと、愛してると、愛の言葉を伝えることくらいしか俺には出来ない。
見返りなんて求めても無駄なのか。惚れた相手に同じように好いて欲しいと思うことは当然の感情ではないのか、頭の中でぐるぐる感情が回る。
さっきのキス一つで全てが解るほど、俺は大人じゃない。

「わりぃ……ちょっと頭冷やしてくるわ」

「あ……」

背後で彼女の声が聞こえたが、俺は振り返すこともせず、そのまま部屋を後にした。


それから家に帰っても、公園で自主練をしていても、頭の中から静さんの存在が消えることはなくて、初めて出会った時よりも、もっともっと彼女を好きになってしまっているということだけが浮き彫りにされた。

「まだ引きずってんのか……」

かつて彼女が号泣していたベンチに腰を下ろして、そっと独り言ちる。
モヤモヤとした嫉妬に近い感情と、同時に仕方ないことだという諦めに近い感情も不意に沸きそうになった。
だったら俺はどうするのがいい?嫌な思いばかりが頭に浮かんで気分が沈む。
身を引く?誰のために?彼女の為?俺の為?質問の連鎖。答えなど出ない。

そう思ったら、思わずとっさに駆け出した。向かうは彼女の部屋。一人で出ない答えなら二人で出すしかねぇじゃんか。
アパートに到着して、腕時計に視線を落とすともう21時半を回ったころ。こんな時間に彼女の部屋を訪れたことなど一度もない。社会人である静さんとは時間の使い方が全く違う。それでも都合を合わせていつも俺を迎え入れてくれた彼女。
好きなんだよ、とてつもなく。

彼女の部屋の前に立ち、おもむろにインターホンを押す。
一度、二度……しかしなんの反応もなくシンと静まり返るだけ。

なんだよ、こんな時に不在とか、ほんとツイてねぇ……。
意気込んでいた分、静がいないことで一気に脱力してしまった。そのまま彼女の部屋の扉の前で背を預けたままズルズルと座り込む。
こんな時間にいないなんて、もしかしたら誰かと一緒に過ごしているのかもしれない。
もしかしたら、新しい恋人でも出来たのかもしれない。
彼女の心の中には、もう他の誰かの存在があるのかもしれない。
嫌な憶測ばかりが脳裏を過ぎる。はぁ、と大きく溜息が零れた。

「恋っつーのは、つれぇなぁ……」

真剣に誰かを想えば想うほど不安にもなって嫉妬もして、それでも諦められない。重症だ。
やっぱり俺に出来るのは、彼女へ自分の気持ちを伝え続けることしか出来ない。
彼女の心の扉を、ノックし続けることだけ――。

「信長くん……?」

不意に頭上から愛しい人の声が降り注ぎ、俺は勢いよく顔を上げた。
すると目の前には心配そうに微笑む彼女の姿。

「おかえり、信長くん」

そう、彼女が言うものだから、俺はなんだか泣きそうになった。

―――Knock。
俺は何度でも叩く。
君の心のドアを……。


(2019.12.11 Revised)



[ 1/1 ]

[prev] [next]
←*。Back

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -