翌日。
今日はなんだか気持ちが軽かった。
休み時間になったので、椚先生のところに定期報告に向かう。レポートがどれぐらい書けたかとか、最近の調子はどうだとか。
あまり話すこともないので適当に報告を終えて、職員室をでると、廊下の先に生徒ではない怪しい人影を見つけた。
「お兄ちゃん?」
不自然な黒縁眼鏡に不釣り合いな帽子、おまけに白いマスクまでしているのに、溢れ出るアイドルオーラは隠せていないようだった。家族だからわかっただけかもしれない。
「名前、やっと見つけた。教室にいないから探したよ」
わたしの姿を見たお兄ちゃんは、嬉しそうにこちらに向かって駆けてきた。
廊下は走っちゃだめだよ。なんて、兄に向って言うセリフじゃない。
そんなことより。
「どうしてここにいるの」
平日の昼間にどうしてお兄ちゃんがこんなところにいるんだろう。今日は仕事で帰りが遅いって聞いたはずだけど。
お兄ちゃんはマスクを外すと、きょろきょろとわたしの周囲を確認している。
「仕事でね。卒業生なんだからここに来ても不思議ではないよ。そんなことよりあいつはいないんだね。よかった。一人でいるのもそれはそれで危険だけど、とりあえず安心したよ」
お兄ちゃんが何を警戒しているのかは知らないけど、わたしはいつも一人だから安心して。
廊下を通り過ぎる生徒が、わたしとお兄ちゃんを横目で見ていく。わたしは自然と視線を下げて、できる限り体を小さくした。
お兄ちゃんと一緒にいるところを、見られたくなかった。ぱっと見ただけでは、わたしたちが兄妹だなんてだれも気付かないだろうけど。
「おや、名字くん」
急に聞こえた声に、お兄ちゃんと二人で反応する。だって二人とも名字だから。
「……朔間。久しぶりだね。どうしてここにいるの?はやく卒業しなよ」
お兄ちゃんの顔から笑顔が消えるまで、一秒もかからなかった。
朔間って……。
赤い瞳と目が合う。なるほど、よく似ていた。初めて会ったときも同じことを思った。
お兄ちゃんなんていないって本人は言っていたけど。
そうこうしている間に、お兄ちゃんに抱き寄せられて、視界が暗くなる。息ができない。
お兄ちゃんに抱きしめられたのは、小学生のとき以来かもしれない。人前でこんなことするような人じゃないのに。
「いつもうちの凛月が世話になっておるようじゃのう」
「そうだね。うちのかわいい妹が世話してあげてるみたいだけど、できれば金輪際この子には一切関わって欲しくないんだ。弟さんにも伝えておいてほしいな。おまえとの交際は認めないって。もちろん君も、例外ではないから」
見えないところで交わされる会話も気になるけれど、わたしは息ができなくてそれどころじゃなかった。こんな廊下の真ん中で注目を浴びるようなことしないでほしい。
でもわたしの訴えはお兄ちゃんには届かない。
「やけに冷たいのう。昔は優しい好青年じゃったのに」
「おまえだって昔はまるで別人だったよね。すっかり老け込んでしまって、大丈夫?」
二人は昔馴染みのようだった。
お兄ちゃんが夢ノ咲を卒業したのは二年前のことだから、朔間さんと交流があったのかもしれない。
「名字くん、探したよ!」
そこへ、先生がやってきた。
ぱっと、お兄ちゃんから解放される。
急に自由になったおかげで、目が光に慣れない。
「先生、お久しぶりです。突然申し訳ありません。今日は僕が代表でご挨拶に。例の仕事の打ち合わせも兼ねて、よろしくお願いします」
いつもの完璧なスマイル。ワントーン高い声。アイドルモードのお兄ちゃんだった。
わたしに対して話すときと同じだ。
昔の知り合いには冷たく返すのに。
一体どちらが素顔なんだろう。
お兄ちゃんはわたしに一つ笑顔を向けてから、先生と一緒に応接室に消えていった。
途端に静かになる。
「名前も大変じゃのう、過保護な兄を持って」
いつの間にか隣に立っていた朔間さんが、お兄ちゃんが消えていったほうに視線を移した。兄という言葉で思い出す。確認するなら今しかない。
「あなたは凛月とどういう関係なんですか」
凛月に聞いてもきっと教えてくれないだろうから。
「我輩は凛月のお兄ちゃんなんじゃよ。凛月から何も聞いておらんのか?」
「何も。お兄さんは」
いないと聞いてます、と言いかけてやめた。
この世には正直に言って良いことと悪いことがある。それはわたしもよくわかっている。正直に言ってしまってから、言わなければよかったなんて馬鹿な後悔をするのはもういやだ。
たぶん今回のは言わない方がいいこと。
他所の家族の問題に勝手に首を突っ込んで、かき回すなんてことしたくない。
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