真っ暗な談話室の中、備え付けられたピアノの下からカリカリと音が響いていた。
時間は既に22時を回っており電気の付いていない部屋からするその音は、三流のホラー映画よりも余程聞くものの恐怖を煽る程には切羽詰まった様子である。

リズミカルにコンコンと鳴り、時折長くひっかくような音。知っている者が聞けばすぐに気づくのだろうが、それは五線紙にシャーペンで音符を書き込んでいる音に違いない。美風藍は窓の外に降る雪の冷たさを、窓のガラス越しに感じながらその音を発てているものを見やった。


「何してるの」


ふわふわのパジャマの上に毛糸の厚いポンチョを羽織り、以前那月にプレゼントされたといううさぎの形をしたモコモコのスリッパを履いて、白崎早苗はピアノの下に居た。それこそ何かに取り憑かれたように無表情でシャーペンを動かしては音符を書き連ね、一枚書き終えるとすぐさま次の用紙に移っていく。

変拍子の曲なのか、譜面の途中に数字がちらほらと見えて、更にシャープやフラットもたくさん見える。もしかしたら誰かのために書いているボーカルのある曲…ということではないのかもしれない。どちらかと言えば吹奏楽で好まれる民族調の曲にも見える。


「サナ?」

「………」


手にしているシャーペンは、以前藍と二人で水族館に行った時に買っていたものだ。

ふと、コツンと音がして、シャーペンが止まった。早苗は脇に置いてあった筆箱からシャー芯のケースを出して振るうが、中身は空っぽなのか出てこない。彼女は基本的にボールペンは好まないし筆箱にたくさんペンを入れて歩く方でもないので、恐らく今ので筆記具が全て無くなったのだろう。

片付けを始めるかとも思ったが、早苗は呆然と両手を下ろすとどこか虚空を見つめたまま両頬に涙を伝わせた。悲しさも苦しさも見て取れない彼女の顔には、ただ無が固まっているように見える。


「サナ、冷えるよ。もう戻った方が良いと思うけど」

「…藍……、来て」


無表情に泣いている恋人のもとへ歩み寄ると、藍はそっと指の腹で涙を拭ってやった。入り口に立っていた時には見えていなかったが、彼女の周りには既に山のような五線紙が散らばっている。いったい何時からここで書いていたのだろうか、彼女の頬はとても冷たい。


「どうしたの?」

「怖い」

「怖くないよ」

「嫌だ」

「…ボクが居ても怖い?」

「……辛い…」


いまいち噛み合わない言葉を返してくる早苗をそっと抱きしめると、一瞬身を強ばらせたもののすぐに全身の力をふにゃりと抜いて、藍にしなだれかかってくる。子供が母親にするように縋ってくる早苗の背をそっとさすり、こめかみ辺りにキスを落とす。

早苗の呼吸が落ち着くのを待ちながら、藍は散らばった譜面を拾い集めて、今は書けないシャーペンと空っぽの替芯のケースを筆箱に仕舞う。それからそっと早苗を抱き上げると、自分の部屋へと移動した。






白崎早苗。元々は如月愛音、第二のパートナーとしてシャイニング事務所の作曲家をしていたらしい。
早乙女学園時代には愛音や嶺二たちと同級生だったが、パートナーのアイドルは恋愛禁止令を破って退学、その後は彼女の曲に入れ込んでいた愛音とその周りの人間が引き込んで、作曲活動を続けさせていた。
そう、資料の上では知っていた。

愛音は自分の心が折れる前に心の扉を閉ざして守ったが、同じくらい感受性が強く敏感だった早苗は上手く心を閉ざすことも出来ず、こうして時折狂ったように何かを発散させている。
マスターコースでは藍と那月、翔の作曲も担当していたが、最初の頃は怯えてしまって苦労したものだ。

藍は一人部屋になった自室のベットに早苗を座らせると、譜面はテーブルに置いて紅茶を淹れることにした。とは言っても、目を離すと何をしでかすか分からないので意識は半分向けたままだ。


「どうして談話室で書いていたの?」


ピアノの下に居たことは触れずに聞いてみた。抱っこのおかげか、いつもどおりに戻りつつある早苗はあっさり答えを口にしてくれた。


「誰か来るかなって。」

「…一人は…寂しい?」

「うん。一人は嫌い。今は、愛音も圭くんも響くんも居ない。嶺二は後輩につきっきり。那月や翔ちゃんの後輩たちに頼るのは嫌。かといって林檎さんや龍也さんも心苦しくて辛い」


ふうっと溜息をこぼしながら、藍は紅茶のカップを早苗に手渡した。一人では嫌だと言うのなら、同僚のところへ行くことを考えるより先に何故自分を頼ってくれないのだろうか。
そんなことを考えるが、きっと早苗は藍を頼って良い存在だと認識していないわけではないはずで、となるとなにか他の頼らなかった理由があるはずだ。


「一人が寂しくて辛いなら、ボクの部屋で暮らせば良いんじゃない。シャイニングだって公認なんだから、それくらい許されると思うけど」

「…良いの?」

「良いよ。サナが一人で辛くなるよりも、ボクは一緒に

「いなくならない?」

「え?」


藍は早苗の言葉をもう一度自分の中で反芻した。「居なくならないか」という確認の言葉に、ふっと海で再会した時のことを思い出す。

マザーPCとの接続を切ったためにメモリにオールデリートがかかった時、彼女はまた大事な人を失うのかと泣いていた。再会した時は帰って来てくれてありがとうと言って泣いていた。

そして今も、不安げに目尻に涙を溜めていて、藍は早苗を泣かせてばかりなような気がしてきた。


「藍に迷惑たくさんかけても、居なくならない?もうどこにも行かない?」


返す言葉が無かった。

藍を頼りたくないのではなく、藍が居なくなるのが怖くて頼りたいのに頼れないのだ。藍の「心」はあくまでも電気信号の羅列で機械的なものであり、複雑な思考回路と感情を持った今は負荷もたまりやすい。
そのせいで藍がまた居なくなってしまうことが心配なのだそうだ。
藍と、離れ離れになってしまうことが、どうしようもなく心配なのだそうだ。

藍は静かに泣きだした早苗をぎゅっと抱きしめると、出来る限りそっと優しく唇を寄せた。


「居なくならないよ。ボクの見えないところで泣かれるのは嫌だから…
 だから、ボクが居るところで泣いて。泣いてても笑ってても、ボクの傍に居て。」


恐恐といった様子で藍の背中に回った手は、なんだかとても暖かかった。


「藍…好き……」

「うん、ボクも…サナのことが好きだよ」








【こわいね】



あなたが居なくなってしまうことが、とても、怖いね…












2014/01/17 今昔
メンヘラ気味のヒロインと保護欲強め藍ちゃん。




_