寒い。

美風藍という個体にそのような感覚は備わっていないはずなのに、何故かその日の朝に限っては、スリープモードから目覚めた時にそんな思考が働いた。もちろん、物理的な気温が昨日に比べて寒い、というようなあくまでも実測値としての「寒い」という感覚は常にある。精密機械として当然のことだ。

藍はベッドの上に腰掛けるとさっさと着替えをすませて、自分の仕事場であるパソコンへ向かう。高音質のヘッドフォンには手をつけず、自分の体から赤と白のプラグを取り出して直に繋ぐ。


「……依頼が来てる…」


特に意味は無いが、声に出して言ってみた。

仕事用のメールにあった新着通知の中には、見慣れたアドレス。同じ事務所の白崎早苗からだ。同じ事務所であると同時に「美風藍」が生まれた時からずっと見守り、一緒にアイドルとして歩んできた女の子。


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From.白崎 早苗
To.美風 藍
<本文>

お世話になっております、白崎です。
新年のお忙しいところ申し訳ございません。お仕事のお願いです。

・概要:作詞、作曲、歌唱を白崎と共に行っていただきます。
・作品:本年夏の月9ドラマ主題歌

詳細は本日そちらに伺う際にお渡しいたします。
よろしくお願いいたします。
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今日は彼女がここへ来る。それを考えただけでなんだか体が暖かくなった気がした。もちろん、寒さ同様に熱いとか暖かいとかいう感情だって持ち合わせていないはずなのに。







その日の午後一番に早苗は藍の自宅兼仕事場のマンションに現れた。


「あけましておめでとう、藍」

「おめでとう。座ったら?コーヒーで良い?」

「うん、ありがとう」


部屋に立ち入った彼女は、最近人気なのだという話をしながら高級そうな菓子箱を取り出し、中から出てきたババロアケーキを付属していたらしいプラスチックのナイフで切り分け始める。藍の視線に気づいてはいないのか、早苗は今日持ってきた仕事の話もしはじめ、急いで飲み物を用意すると彼女の隣に腰掛ける。

とくん。
なんて可愛らしい音をたてて、藍は自分の中でまた「暖かい」という感情が芽生えたことに気づく。


「今度のドラマはね、シャイニングの特別企画でマスターコースの後輩だった子たち8人と
 それから私たち先輩5人が出るんだって。」

「ボクたちは出演もあるの?今朝のメールからだとてっきり主題歌だけだと思ったんだけど」

「ごめんごめん、もう話来てると思ったんだもん。シャイニー忘れてたのかな…とにかく、マスターコースの先輩後輩たちだけで劇伴とかもやるみたい。私と藍は主題歌と劇伴、それから出演。忙しくなるから今から着手なんだってさ」


早苗は言うとバックから分厚いクリアファイルを取り出し、中から数枚の五線譜と
それから数冊のスコア譜を取り出して藍に見せてくる。随分早い時間に起きてメールしてきたものだと思っていたが、徹夜していただけだったらしい。

年越しライブと新年早々にも生放送の特番にたくさん出ていたはずの彼女は、今は化粧で隠れているのだろうけれど、それでも少し疲労がにじみ出てきている。


「…作曲なら七海も出来るのに、どうしてキミになったの?」


疲れてるなら休ませなくては。早苗は自分と違って披露が溜まる生き物だし、同じ人間と比較してもかなり忙しい方に分類されるのだから。演じるだけでも一仕事なのに、そこに歌や作曲までついてきたら彼女の体が心配だ。

そう思って七海の名前を上げると、早苗はババロアケーキの乗ったお皿を置いて、砂糖とミルクがたっぷりはいったコーヒーを口に含み、飲み込みながら顔をしかめた。


「どうして?」

「ん?何?」

「どうして七海春歌が出てきたの?藍はあの子の曲の方が好き?」

「…そういう訳じゃない。ただ早苗は休んだほうが良いと判断したんだ。ボクは公私共にキミのパートナーなんだから、疲れて倒れられたら困るよ。」


藍の言葉に顔を上げた早苗は、目尻に溜まりつつある涙をこぼさないようにか、そっと瞬きした。そしてコーヒーのカップを置くと藍に向き直り、ふにゃりと顔を歪める。


「本当?」

「ボクは不利益になる嘘はつかないし、キミの曲が好きなのは本当だよ。」

「私も…藍の歌好き…」


人間のそれより少しだけ冷たい自分の肌に、早苗を引き寄せて抱きしめてみる。藍は少しだけ、また「暖かい」というものを感じて、頬の筋肉が弛緩するのを感じた。

多分これは、物理的な暖かさではない。心が感じている温度なのだろう。早苗に出会ってから色々な感情を知ったけれど、こんなにも穏やかで優しくて、壊れやすくて、とても大切だと思う感情は初めてだ。

藍にとっての一番で居たいと願ってくれる早苗は、機械である藍と違う意味でまっすぐで、それでいて0や1では表しきれない複雑で特別な存在になっている。
今もきっと、藍の中で自分より他の作曲家が上にあることへの不安でいっぱいになったのだろう。人間の女性という生き物は、泣くことでやり場の無い気持ちに整理をつけるそうだから。

逆に言えば、泣いてしまう程に藍を大切に思ってくれているということで、もっと信じてよと思いもするが、出来限り安心させてあげたいという気持ちが芽生える。どうしたら彼女は安心してくれるだろうか?どうしたら早苗は笑ってくれるだろうか?


どうしたら、早苗とずっと一緒に居られるだろうか?


こんなことばかり考えていたら、博士に筒抜けなのにと分かっていても、藍の思考は全く止まってくれない。止めたいとも思わない。


「…今日は、泊まっていく?」


きょとんとした顔と笑顔との間みたいな顔になった早苗に、曲作りも進めたいし…と我ながら言い訳じみた内容を付け足して、それから早苗が苦しいと文句を言うまでぎゅっと抱きしめた。





【ぬくぬく】





後日
「藍、お泊りに誘うってどういう意味か分かっているかい?」
「…博士、ボクのメモリを勝手に見ないでって言ったよね?」
「いやぁ…息子に可愛い彼女が居るんだよ?気になるじゃないか。あ、そうだ。やっぱり恋人同士の交わりが出来るような機能を…
「搭載しなくて良いから!!」













2014/01/15 今昔
病んでるヒロインと過保護な藍ちゃん好きです。




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