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明治9年。
滋賀県の琵琶湖に浮かぶ有名な監獄、獄門処。そこに白崎早苗は、看守に与えられる制服を頭の先から足の先までぴっちりと着込んで立っていた。それは同僚である錦もいつもの無表情を崩して小さく苦笑いする程で、他の監獄の看守となった同期には優秀であることを羨ましがられると同時に疎まれた。
早苗はこの獄門処の看守として、今年から配属されることになった身である。幸いにも、この獄門処というところは琵琶湖に浮かんでいるため「脱獄不能」と言われており、連れ込まれる罪人はどれも極悪人だが、諦めている者が多いのか暴れるものは然程多くないと聞く。多くないとはいえ、母数が大きいのだからそれなりの数は居るだろう。


「覚悟してかからねば…」

「あまり肩肘張らないほうが良い。早苗は少し気負いしすぎるきらいがある」

「うるさい、私はここで頑張りたいの。分家とはいえ、私にも曇家の血が流れている。私だってこの土地が好きだから、土地を守る仕事に就きたかった」

「曇…大蛇を祀る神社の家か。あなたもその一族なのだったな。」

「まぁ…『忘れられた血統』なんて不名誉な呼び名がついてるけどね」


早苗は自重するように笑い、そして獄門処の控室でため息をついた。この琵琶湖に浮かぶ要塞に立ち入ってからというもの、まるで千年の恋に落ちたように心臓が落ち着かない。これが『忘れられた血統』と呼ばれる白崎の血がそうするのか、はたまた早過ぎる更年期かは分からない。

『忘れられた血統』といえば、この土地では白崎の名前を指した。早苗も血を引く白崎は、大蛇を祀る曇神社の分家であり、大蛇を崇める一族であるらしい。祀ると崇めるの違いはいまいちよく分からないが、ともかくご神体に関する一族であることは確かだ。
その血筋のおかげなのか女性にしては身体能力にも恵まれ、さらに陰陽術にも長けている。陰陽術に限っては阿部の家や芦屋などの有名ドコロには叶わないが、それでも一人以上の戦力として数えられても問題ないほどだった。

早苗は同僚である錦とともに先輩の看守からそれぞれの持場についての説明をうけ、それぞれの先輩について持ち場へと移動した。
早苗の持ち場は奥まった場所にある独房付近であり、罪人の労働を見張るよりも、戦闘力が高く独房に入っている罪人の牽制という意味があるらしい。陰陽術を仕える人間がここへ勤めることも少なければ、女性も少ない。油断してかかってくれば罪人のほうが返り討ちにあう。
先輩の看守たちはそんな逸材を厄介な場所に押しやり、満足した様子で控室へと帰って行ってしまった。残ったのは手渡された罪人の書類束と、やるせなさだけだ。


「お、顔を見ないお嬢さんだなぁ…え?」

「……」


声をかけられ書類の束を捲ると、比較的最近入ったらしい独房の罪人であった。


「珍しいなぁ、女の看守だなんて。しかもこんな独房によう」

「よく動くうるさい口ですね。塞いで差し上げましょうか」

「いいねぇ…接吻なら大歓迎だ」


ぎゃははと下品に笑ったその罪人の独房に近寄ると、早苗はガッと盛大な音をたてて壁を蹴り上げると、出来る限り妖艶に舌を唇に這わせた。


「それがお望みなら、そこから出てくることですね。償えるほど軽い罪だとは思いませんが」


これが、『白崎』の能力であった。
陰陽術でもあり、くノ一が使うような洗脳術でもある。相手の心を掌握するのに長けているのが、白崎の女性が持つ最大の特徴であった。その気に当てられたらしい罪人は恍惚とした表情でこちらを見上げ、すっかりおとなしくなってしまう。
早苗はなんだか手応えが無いように感じため息をつくと、定位置へと戻った。感受性は強いほうだと自覚している。この場所へ来て何を感じ取っているのかは分からないが、胸の高鳴りは抑えようがない。その火照りを抑えるような展開を期待したのだが、独房に入れられているとはいえども所詮罪人。気に当てられやすいただの人間だったようだ。



翌日。早苗が担当する独房区画に新たに罪人が連行されてきた。独房に入るわけではなく、どうやら最奥にある独房へと一時的に入る様子であった。


「良いか、白崎。誰も通すなよ」

「はっ!」


ピシリと敬礼すれば、上司は満足したように罪人を連れて行った。


「やめてくれ…ここは不味いんだ。だってオレは持ってない!!持ってこれなかったんだよ!!!」

「黙れ悪党が。」


何やら独房が近づくにつれて恐れて狂ったように叫ぶ罪人に、上司は容赦なく蹴りを入れた。泣きじゃくる罪人と共に独房へ入っていった上司の顔もどことなくひきつっているように見えた。


「大変だなぁ、看守さんもよぅ」


初日に早苗の気に当てられた罪人は、名を洋平というらしい。彼は早苗にすっかり参っているらしく、素直に言うことを聞いてくれた。更に聞いてなくても獄門処の中でやりとりされている情報が仕入れられれば教えてくれるし、すっかりと下僕に成り下がっている。
早苗はそれを気に留めるでもなく、洋平へ向けていた視線を奥の独房の方へと向けた。


「!!」


背筋が、ゾクリと震えた。獄門処へ配属されてから収まらなかった胸の高鳴りが更に高揚し、手のひらがソワソワとする。
はじめて、森の中で蛇を見つけた時のような、絶対的な恐れを感じた。しかしその恐れは嫌なものではなく、自分が従うべき相手を見つけたという高揚感の上位互換にあたる感情だ。早苗はその絶対的な気を放っている相手が居るであろう、最奥の独房を見つめた。隣で洋平が「なんだ?どうした、看守のお嬢ちゃん」とブツブツ言っているが、そんなものは耳にも入らない。
ただ、あの独房の中に居る者に出会い、その相手に全てを捧げてしまいたいと思ってしまった。それは恐らく『白崎』の血がそうさせているのであり、更に言えば血に関係なく『早苗』が持つ感性もがそうさせているのだろうと感じられる。


「素敵だ…」


しばらくして出てきた上司と罪人に慌てて定位置に戻ると、早苗は恍惚とした表情を隠すのに全神経を働かせなければならなかった。
会いたい。会ってみたい。話してみたい。違う、声だけで良いから聞いてみたい。早苗のそんな思いは、時折罪人が連れ込まれて行く度に強くなった。独房へ連れ込まれた罪人たちは、誰もが恍惚とした早苗と同じ表情を浮かべるか、もしくは先日の罪人と同じく恐れに狂ったように震えて出てくる。それほどにあの独房の罪人は素晴らしいのだろう。





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