記憶というのは不思議なもので、楽しかった出来事の記憶はあまり残らない。頭の中には辛く、悲しい記憶ばかりが残る。そしてその記憶は何年、何十年、何百年と、持ち主の心の奥深くに根を張って、呪縛のようにまとわりつくのだ。
 スペインはその時のことを、いつまでも鮮明に覚えているのだろう。

 その日、空はひどく晴れていて、太陽がぎらぎらと照りつけていた。なのに海は決して穏やかではなかった。ぐらぐらと揺れる船の上、海賊共によって縄で縛られたスペインの目の前では、とんでもない光景が繰り広げられていた。きらびやかな衣装の裾を翻し、この大きな海賊船の舞台の中心へと躍り出た人物。
「イギリス!なんでおまえ、」
 必死に喚くスペインを完全に無視して、イギリスは自国の民―――海賊共を表彰している。どういうことや?スペインは必死で考える。だけどどれだけ考えても、答えは目の前にある現実ただひとつで。
「ご苦労だった。今後もよろしく頼む」
「イギリス!」
 もう何度目になるかわからないスペインの呼びかけに、イギリスはようやく捕らえられている彼のほうを見た。何の感情の色も見えないエメラルドグリーンの瞳。スペインはひたすら叫んだ。
「どういうことやねん!なんでおまえが海賊と、」
 どんなに体を動かしても縄がほどけることはない。なんて滑稽な、イギリスがようやく吐いた言葉は非情なものだった。
「しつこいな」
 イギリスはつかつかとスペインの元へ歩み寄り、そのまま勢いよく彼の胸倉を掴んで無理矢理立たせた。ぐっ、と首が絞まり、スペインは苦しそうに顔を歪める。
「おまえ、つくづく頭悪いんだな。全部見ればわかるだろう?」
 ここまでくれば誰だってわかる。すべてはイギリスが仕組んだことだと。一体自分はどんな答えを期待していたのだろう。スペインは大きく息を吸い込んだ。
「……最っ低や!!」
 イギリスの目が一瞬だけ大きく見開かれた。しかしすぐに蔑むような視線に変わる。スペインも負けじとイギリスのことをぎりぎりと睨みつける。
「全部嘘やったんやな」
「ああ」
「海賊対策なんて、鼻っからやるつもりなかったんやろ?」
「対策も何も、海賊は良き仲間だからな」
「……!」
 スペインはイギリスのことを殴りたかったが、きつく結ばれた縄がそれを許してくれなかった。スペインの拳に力が入るたびに、縄は痛々しく食い込む。痛みを感じないはずはないのだが、今のスペインには体なんかより痛い部分が他にあった。
「じゃあ、なんであの時、あんな真似したん!?」
 あの夜、この船の、おまえの部屋で。
 再びイギリスの表情が微かに変わった。動揺しているに違いなかった。脳内で再生されるつい数日前の出来事。あの時イギリスが取った行動に、嘘偽りはなかった。だけど仕事とイギリス一個人の感情は別問題だ。それに今ならこう思い直している。あんなのは一時の気の迷い。もはや忌々しい記憶だ。
何も答えないイギリスに、スペインは苛立った。今すぐに、この目の前の最低な男に復讐したいのに。今、スペインに残された手段は言葉しかない。それならば、ありったけの憎しみを込めて呪いをかけるしかない。
あの時かけてくれた言葉も、抱きしめてくれた温もりも、全部嘘だと言うのなら。
「俺はおまえを、絶対に許さへん……!!」
「……!!」
 十分すぎる呪いの言葉。
 イギリスはもう一度手を伸ばしてスペインの腕を掴んだ。ほとんど衝動的だった。そのまま、やめろと喚くスペインを無理矢理引きずってゆく。周りにいた海賊共もざわめく。キャプテン、この後は?―――西に向かえ。簡単な指示だけを残して、スペインもろとも自室へと入って行った。
 部屋に入るなり、イギリスはスペインを乱暴に手放した。手の自由がきかないスペインは床に転がり、まともに体を打ちつけてしまった。
「うっ……」
 体を襲う痛みに耐えながら、スペインは憎き隣国を見上げた。イギリスは後ろ手で鍵を閉め、無様に横たわるスペインを上から見下ろした。とても冷ややかな視線だった。
「何するつもりや?」
 わざわざ場所を移して、鍵までかけて。イギリスは無言のままスペインの前まで出てしゃがむと、スペインのあごをぐい、と上げた。スペインは顔いっぱいに嫌悪を表す。
「太陽の沈まぬ国、か」
 かつての栄光は影をひそめ、目の前にいる国は今や傷だらけになって倒れている。イギリスはにやりと口角を上げた。
「ほんとにあっという間だったな、おまえの太陽は」
 実際、スペインが世界を制覇したのは、時間にすると10年にも満たない期間だった。何百年と続いてきた歴史の中では、数年など瞬きをする間に過ぎ去ってしまう。
「太陽が沈まないなんてありえねぇんだよ。自然の摂理に背こうとするからこんなことになったんだ」
 当然の報いだろう。イギリスは静かに、でも確かな恨みを込めて言った。イギリスは威勢のいい反論を期待していたのだが、意外にもスペインは黙ったままだった。つまらねぇ、小さく舌打ちを打つ。
「おまえ、今日から俺の捕虜だぜ?」
「っ!」
 ざまあみろ。きゅっと真一文字に結ばれていた唇を割って、イギリスの指が侵入する。口内を乱暴にかき混ぜられ、スペインは苦しそうに二、三度咳をした。
「こんな姿、おまえのかわいい子分が見たらどう思うだろうな」
 南イタリアの話を出せば、スペインは絶対に感情的になる。イギリスはそれをわかっていて彼の話題を振った。案の定、うつろになっていた瞳に生気が戻る。憎しみを灯した、かすかな光。
「おまえがいなくなって、どうやって生きてるんだろうな。消えるのも時間の問題じゃねぇか」
 突如、イギリスの指に鋭い痛みが走った。反射的に手を引く。スペインに噛まれたのだ。見ると、赤黒い内出血の痕が残っていた。
「おまえ……!」
 イギリスは床の上に倒れたままのスペインの頬を思いっきり叩いた。乾いた音が響く。痛いはずなのに、スペインは声ひとつ上げない。歯を食いしばってひたすら耐えていた。
「俺はどうなってもええ。捕虜でもなんでも、おまえの好きにすりゃええ。ただな、ロマーノの悪口言うんは許さん」
 ようやく口を開いたかと思えばどこぞのヒーロー気取りのような台詞。イギリスは反吐が出そうだと思った。こいつ馬鹿だろ。なんでこんなになってまで、あんな弱小国に肩入れする?スペインの意図が、イギリスにはまったく理解できなかった。
「イタリアに夢見るのもいい加減にしろ。ローマ帝国は二度と復活しねぇ。てめぇみてぇな時代遅れ、見てると虫唾が走る」
「おまえには関係ない」
 いよいよイギリスの我慢も限界だった。どうもこの男の相手をしていると頭に血が上ってきてしまう。
「おまえにはわからんやろな」
「は?」
「長年、ずっと一人ぼっちやったイギリスにはわからへんよ」
 この気持ちはわからない、絶対に。おまえはずっと、一人だったから。
 スペインの言葉に火がついたのか、イギリスは衝動的にスペインの肩のあたりを掴んで上半身を起こした。もうぼろぼろになっていたシャツの生地が、びりりと音をたてて裂ける。
「そんな口利いてられるのも今のうちだぞ」
 好きにすりゃええ。確かにおまえはそう言った。だったらこちらも容赦しない。
 色の違う緑の瞳が、ぎりぎりと睨み合う。



永遠に解けない呪い
(噛み合わない歯車が動き出す)




(2011/06/10)
まさかの!また終わらなかった^q^

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