俺にはもう、生暖かい両の手が付いているのに、それでもまだ、あんたを抱くには程遠い。


正国が言った言葉が頭の中を延々と反芻している。
細めた金の瞳はいつにも増して暗くふさぎ込み、睨むように自身の掌を見つめた正国はどうしようもく苦しそうに見えた。

言葉の意味が分かったようでいて、それならなぜあたしは正国のこの言葉にこんなにも毎夜胸が締め付けられるのだろう。

近侍として襖一枚隔てた隣の部屋にいる正国は、本当に生きているのか疑うほどに一つの物音すら立てなかった。

「…正国」
「どうした」

布団に寝転んだまま小さく声をかけるとすぐに言葉が返ってきた。
ひどく安堵してつい漏れた笑顔をあたしは慌てて口で抑える。

「ん、んーん、もう寝たかなと思って」
「寝ねぇよ、あんたが寝るまでは」

襖からいつもの気怠げな言葉が返ってきた。
布団の中でひっくり返り、枕の方へと首を伸ばすも、視界にあるのは襖だけだ。
それなのに、その向こうに正国がいると思うだけで胸が高鳴った。
腑抜けた声が穏やかにそう告げて、あたしは嬉しさを噛み殺しながら言葉を紡ぐ。

「…ふーん。眠くないの?」
「今日は昼寝したからなぁ」
「あったかかったもんね」
「あー、春みてぇにな」


縁側でぼんやりと庭を眺める正国の隣に腰掛け、一緒に月を眺めたのはもう何日も前のことだ。
真ん丸な満月が正国の瞳みたいだと言うと、正国はそうか?と間延びした声で首をひねった。
遠くの山々まで果てしなく照らす心細い光に、なんとなく、長年想っていた言葉が溢れ出て、それからはもう止まらなかった。

「だから、あたし、正国のこと、」

長くなった前置きを言い終えやっと胸のつっかえを吐き出そうとすると、正国が驚いた瞳のままあたしの口をその大きく無骨な掌で優しく、まるで初めてのキスをするみたいに、壊れ物を抱きしめるように静かに塞いだ。
熱い掌が唇に触れて少し、汗の味がした。

「あんたは人間だろ」

塞がれた唇から言葉が出ない。
正国も人間なんだよ、たったその言葉一つ言わせてもらえなかった。

「あんたと俺とは、違うんだ」

あたしの口を頑なに塞ぐ掌を引き剥がそうと自身の手を重ねた時、正国がひどく泣き出しそうな顔で唇を噛みしているのにやっと気付いた。

「俺にはもう生暖かい両の手がついてるのに、それでもまだあんたを抱くには程遠い」

何故そんなに悲しそうな顔をするのか。
分からなくて、けれど正国があたしを拒んだことだけはよく分かって、だからあたしは一雫の涙を流した以外には抵抗せずに拒否されたことを受け入れた。


「春みたいだったね」
「おー」
「正国」
「あー?」
「また満月が出たら、一緒にお月見しよう?」

襖一枚隔てた向こう。
とんでもなく近いはずなのに、正国はこの一線を絶対に越えようとはしない。
触れたいと願えば願うほど苦しくなるこの胸を斬ってくれと頼んだら、そんなことは出来ないと仕方なくあたしに触れてくれるのか、それとも主命と受け止め実行してくれるのか。
どちらにせよあたしには嬉しいことだ。
けれどどちらにせよ、きっと正国は泣くと思う。

「また満月が出たらな」
「うん」
「今度は他の奴らも一緒にやればいい。その方があいつらもあんたも、嬉しいだろ」

なんて遠い距離なんだろう。
襖一枚、たったそれだけなのに、必死であたしを遠ざけるなんてひどいじゃないか。
夜這いでもかけてやったらあたしは儚くも切り捨てられてしまいそうだ。

「…ねぇ、正国」

それもそれで本望か、と、あたしは布団からするりと体を起こした。
切り捨てられても、たとえ刹那でも正国に触れられればそれでいい。

「なんであたしをそんなに嫌うの」

畳を引きずる衣の音が不細工な泣き声に聞こえて、目の前に立ちはだかる薄い襖が、頑丈な牢屋に思えて。
あたしの言葉に対する返事が例えどんなにひどい拒絶の言葉でも、あたしはあたしの身を犠牲にしても、それでも正国に触れたいんだ。




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