人の形になったのだから思う存分楽しめばいいじゃないか。

そう言ったのは誰だったか。
三日月か次郎辺りだとは思うが、酒を飲みすぎていたせいではっきりとは思い出せない。

戦のない日はとにかく暇で、縁側からこのだだっ広い池を一日中眺めているのにもいい加減に飽きていた。
買出しを頼まれた帰り道、ふいにその言葉を思い出して、俺はふらりと、町の奥深くへと足を踏み入れてしまった。

主から貰った名誉ある金。
それで、主に似た背格好の女を買った。

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「次の出陣も同田貫が隊長でいいよね」

罪悪感は後から来た。
主に見立てた女の顔は主には程遠く、声なんて蝦蟇が潰れたような奇妙なもので、だから俺は目を閉じて耳を布団に押し付け、今目の前にいるのは主だとそう想像してやっと金に見合うだけの快楽を得た。
それでいよいよ自覚した、俺が繋がりたいのは女ではなくて主だけなんだなと。
目を開けた時その女が歪んだ笑顔で「どうでした」と聞いてきたから、「もう金輪際、金で女は買わない」と言うと、女は「お兄さん、ちゃんと好きな人いるんでしょう?」と少しさみしそうに笑った。
その笑顔だけがなんとなく頭から離れなくて、だから余計に、罪悪感は加速する。

「…おー」
「今回は短刀達の実践練習に…、って、聞いてる?」

主の声が耳に抜けるこの感覚がどうにも心地いい。
この声をずっと聞いていたいと思うし、俺にだけ語りかけてくるこの瞬間にたまらなく嬉しくなる。
それなのに、妄想の中で自ら汚してしまったこの人にどんな顔を向ければいいか、最近全く分からなくなっている。

「あー、聞いてるよ」
「…大丈夫?最近よくぼんやりしてるけど」
「あぁ?そうだっけか」
「そういえばこの前からご飯残してるって…、ねぇ、どっか悪いの?どっか痛くて隠してたり、」
「んなわけねーだろ、どこも悪くねぇよ」

人間になっていいことなんて、戦関連を除けば殆ど無い。
飯も酒も美味いが、腹が減るのも喉が乾くのも煩わしい。
人肌を求めてしまうのも、男という本能に囚われるのも、身が擦り切れるほどに苦しいものでしかない。
求めれば求めるほど辛くなるばかりだ。

「羨ましいな。お前は人間を謳歌しているじゃないか」

主を抱く夢を見た、と三日月に言うと、いつもの飄々とした笑顔で三日月は至極嬉しそうにそう言った。
こんなに苦しいのにか。
そう返すと、「それが人間の醍醐味だ」と笑い飛ばされてしまった。
主と会話をするのがとてつもなく気分を高揚させる。
それなのにとてつもなく落ち着かなくていつもの俺でいるより疲れるのは、きっと主がこんなふうに真正面から俺の顔を覗きこんでくるからだ。

「…そう?じゃぁ、出陣、大丈夫なのね?」
「…あー、それはな。いつも通りやるよ」
「もう、いつも以上に腑抜けて。なら任せるよ、いい?」
「おー。分かったっつってんだろ」

覗きこまれた視線から逃れるように目を瞑る。
主は困り顔をしたものの、諦めたのか一つため息をこぼして立ち上がった。
細身の体がしなって俺の視界を塞ぐ。
金で買ったあの女よりも背が高くて華奢に見える、のは、きっとあの女より胸がないからだろうか。
そんなことを思っていたら、眉を顰めた主が俺を見下ろしてまた、その心地いい声を風に乗せた。

「何?珍しそうに眺めて」
「…は?あー、あぁ、いや」
「あ、もしかして気付いた?」
「あぁ?何に?」
「えー、気付いたんじゃないの?ほらこれ、見て。新しい口紅塗ってみたの」

妄想の中で何度汚せば気が済むのだろう。
深い自責の念に駆られてもなお、この人を汚さずにはいられない。
出来ることならこの前の女よろしく、俺の上でその身体をくねらせ、その鈴の音のような声で俺の名を呼び、啼いてほしい。
互いの体温を交じらせ俺の身体を深くまで咥えこみ、互いに口付けながら溶け合いたい。
そんなことを思うのは悪いことだとさすがの俺でも知っている。
それなのに、そんなに無防備に俺に唇を寄せるなんて、主は結局のところ俺を人間とは見てくれていないのだろうか。

「可愛いでしょ?」

主は俺の顔の前に唇を突き出して、へらりと笑った。
正直何が前と違うのか全くわからない。
突発近くなった柔らかな桜色に、俺の未熟な理性は簡単に崩れそうになる。

「…可愛い、っつーか」
「綺麗?」
「…いや、」

あの女ですら果てた時には特別な満足感と快楽があった。
それなら、主を抱いたらどれだけの恍惚を味わえるのだろう。
想像するだけで体が熱くなっていく。

「美味そうだ」

無防備な主は俺をまだ人間として見ていない。
人間にしたのはそっちの癖に。
親指で緩く唇をなぞってやると、肌に吸い付くような柔らかな感覚に、あの女を抱いた時と同じような気怠い恍惚感と背徳感がぞわりと下腹部を撫で付ける。
驚いた顔で俺を見つめる主にどうしてやるのが正解なのだろうか。
久しぶりに真っ直ぐ主を見つめ返すと、主は一瞬で顔を上気させて俺の手を振り払った。

「ほんっとに、食欲しかないんだから」

それが人間の本質だろう。
そう言おうとしたら、主は逃げるように自室へと踵を返した。




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