この部屋から見える景色に、飽きてしまっている自分がいる。
広い池の鯉がここから見えるほどにでも跳ね上がれば少しは面白いのに。
そんなことが起こらないかと淡い期待を抱き続けるも、たまにぽちゃん、と小さな水しぶきがあがる他にやはり何の変化もない。
頬に触れる風は柔らかく生温く、ともするば居心地がいいのか悪いのか、分からなくなりそうで俺はとりあえずわざと大きなため息をついてみた。
ため息といえばそうだが、ついでに俺にその背中を預けて難しそうな書物を読んでいる主の後頭部にその息を吹きかけてやる。
主はやっとこちらを振り向き、それから「重い?」と小さく呟いた。

「いや、重くはねぇけどよ」

壁にもたれて伸ばした俺の脚の間に、主は至極当たり前の顔をして挟まるように座っていた。
俺の太ももを肘掛け代わりにし、俺の胸に花の匂いのする後頭部を預け、随分と寛いでいる。
段々と左側に主の体が傾き、同時に太ももに肘以外の何かも触れ始めていた。
異様に柔らかいそれが服の上から肌をくすぐり、気持ちいいんだか悪いんだか、この部屋の風に似た居心地のむず痒さにそろそろ限界が近い。

「眠い?」
「…いや、まぁ、眠いかもな」
「寝てもいいよ」
「このままか?」
「うん」
「寝れねぇよ」

主が読んでいる書物に何が書かれているのか分からない。
俺の言葉に驚いた顔をこちらに向けた主は、落書きみたいな絵ばかりのそれをぱたりと閉じて俺の胸に後頭部を押し付けながら首だけで振り向いた。

「なんで?」

花のような匂いのする髪の毛は、同じ風呂場で同じ石鹸で洗っているはずなのに天と地ほど俺のものとは異なっている。
柔らかく細い髪の毛がさらりと華奢な音を立てた。
至近距離から見上げるように見つめられ、つい口に出しかけた言葉を慌てて喉の奥へと押し戻す。

「なんで、ってなぁ」
「あたしはここで眠れるよ」
「人の股でよく眠れんな」
「たぬにくっついてると、安心するから」

見下ろせば肌蹴た衣から白い胸の膨らみが見えそうで、俺はすぐに視線を上げた。
正面にはなんの動きもない広い池とつまらない風景だけ。
誰がどう見ても落ち着くはずのこの風景、それなのに俺はこの部屋で主に会うのが最近ひどく億劫になっている。

「…俺は、あんたと一緒にいると、ひどく不安になる」

心臓の音は、当たり前だが戦に行く時なんかより静かに一定の脈を刻んでいる。
それなのに、自身の心音が耳にまで聞こえてくるこのつまらなく静かで穏やかな空間が、どうしても俺とは別のもののような気がしてならない。
生温い風が俺の体にまとわりつく。
少しでもこの空間を受け入れてしまえば、もう俺は以前までの俺ではいられないような、そんな気がした。

「…そう」

主は少しだけ寂しそうな声でそう言った。
そんな悲しい顔をさせたかった訳では無い、そう言おうと思ったけれど言葉にならなくて、俺は黙ったまま池を睨んだ。
ぽちゃん、と池に小さな飛沫が上がる。
あの池にいるのはどんな鯉なのだろう。
主が大切に育てていると以前短刀達が騒いでいるのを聞いたことがある。
今まで興味の欠片もなかったが、今度どんなやつらが呑気に泳いでいるのか覗いてみよう。
そう思った時、主が俺から体を離した。
冷たい空気が突然俺と主の間に割って入って、その冷たさにぞくりと背中が総毛立った。

「あたしは、たぬといるとすんごく安心するんだけどな」

泣き出しそうな顔を無理に歪めた主がそう言ってへらりと笑った。
少しだけ離れた肌がもう恋しい。
花の匂いとともに消えた温もりは、多分、居心地のいいものだと知っている。
けれどそれを言ったら、俺は俺でなくなってしまう、それがとても怖いんだ。

「…俺はただの刀だぞ」
「今はただの人間だよ」

その肌に触れてもいいのか、尋ねてみたらあんたは俺を受け入れてくれるのだろうか。

「あたしと同じ」

主はそう言うと俺から少し離れたその場でまた難しそうな本を開いた。
落書きだらけのそれのどこがそんなに面白いのだろう。
手を伸ばせば簡単に抱き込める位置にいて、俺から逃げたつもりなのだろうか。

「その本、何がおもしれぇんだ」

本を覗き込むふりをして主の額に顔をぐっと近付けた。
あわよくばこの距離でずっと一緒にいたい、だなんて、ほらまたこんなふうに思ってしまうから、俺は逃さないようにそっと主の服の裾を握った。
俺の心音はひどく静かで一定のはずなのに、こんなにも強く煩く鳴り響く。
たった一握りの衣を掴んだ指は、雪道に捨てられた仔犬のように、情けなく小刻みに震えていた。




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