「あたしの名前、『カンナ』っていうの」

それは何の変哲もないいつもの気だるい午後のこと。
美味い胡瓜が採れたからと主の部屋に持っていった時だった。

「だから今度からは、そう呼んでね」

いつもの気だるい午後。
いつもの見慣れた主の部屋で、いつもの見慣れた主の笑顔で、聞き慣れない言葉が耳に木霊する。
俺は自分ではなんて言ったか分からないくらい曖昧に返事をして、主が漬けた味噌を間抜けに受け取った。

俺と主との付き合いはこの本丸で一番長い。
近侍は基本的に俺だったし、滅多に部屋を出たがらない主と唯一まともに会話を出来るのも俺だけだった。
皆が俺を介して主に言付けを頼む。
それがいつしか心地好い優越感をもたらし、俺にだけその華奢で無防備な姿を晒す主への好意に繋がったことは否めない。
俺が守るのは本丸ではなく主。
歴代俺を手にし散っていた強者共とは違い、俺が自ら望んでそばにいたいと願い、そしてそれが叶う体にしてくれたのも主でしかない。
だから俺には主しかいなくて、それは主が主である限り変わることのない誓いだった。
勿論、それがどこがで途切れることなんてないと思っていたし途切れさせるものかと、そんなふうに思えていたんだ。


あたしの名前、カンナっていうの

主の言葉がまた、耳に響く。
貰ってきた味噌を調理場に持って行くだけなのに、何も無いいつもの廊下でけつまずいた。
それも面白いほど派手にけつまずいて、俺は廊下に顎を強打した。
変な音が響いて一人、冷たい廊下にうつ伏せて、「ぐぅっ」なんて出た情けない言葉になんだかひどく、笑えてくる。

「おいおい、何を間抜けなことやってるんだ」

転んだ拍子に前方へ飛んで行った味噌を鶴丸が拾い上げる。
いつもの見透かしたような笑みを浮かべて、やれやれ、と呟きながら俺の目前に手を差し出す。
いつもの俺なら断るであろうその手を今はなんでか断る気にもならなくて、俺は素直にその手を握りしめた。
細い腕が俺の体をひょい、と引っ張りあげる。

「味噌が無事だったからよかったものの」
「…あぁ、悪い」
「なんだぁ、しおらしいな。君らしくないんじゃないか」
「…いや、別に」
「主の機嫌が悪かったから、君がまた何かしたのかと思ったけどな」

代わりに持ってくれるのかと思った味噌を俺の腕へと戻すと鶴丸は口の端をあげて笑った。
ずしりと腕に乗せられた味噌がさっきより重く感じる。

「…機嫌、悪かったのか」
「あぁ。さっき珍しく道場に来て俺と三日月の手合わせに文句を垂れてたぞ」

鶴丸の言葉に無意識に唾を飲み込む。
主、と呼ばれているあの人がなぜ俺に本当の名前を告げたのか、確信が持てなくてぐらぐらと頭が痛んだ。
俺と主の付き合いは一番長い。
主の部屋へ入れるのは俺だけだったし、何をするにも俺を通して指示していたし俺もその立場に優越感を感じていた。
けれど俺でさえ、彼女の名前は主、としか知らなかった。

「…名前を」
「ん?名前?」
「主が俺に、名前を告げたんだ」

俺たちは元々刀で、いわば化物とか妖怪とかそういう類のものだったわけで、そんな俺たちを人間にしてくれたのは主だけれど本名を明かすことだけはしなかった。
曰く、『神隠し』にあうから教えられない、ということらしい。
最悪な世界だったけれどあたしはまだこっちの世界に囚われたくない、と、まだ元の世界に戻りたい気持ちの方が強いから、と、そう言っていたのは主だ。
けれど主は、俺にその名を告げた。

俺の言葉に暫し固まったままだった鶴丸は、数秒後に笑顔のままぎこちなく「ははっ」と笑った。
気味の悪い無表情な笑顔が向けられる。
俺の肩に馴れ馴れしく触れた鶴丸が、驚きを隠さずに頷いた。

「いいことじゃないか」
「…よく分かんねぇ」
「してやったらいいんだよ。『神隠し』を」
「俺にまだそんな力あんのか」
「あるさ。主のそばに永遠にいると、君はただ誓えばいい」
「そんなの、もうしてるぜ」

白く美しい瞳が丸く、大きく開かれる。
驚いたな、小さくこぼれた鶴丸の口元から笑顔が溢れ出す。
当たり前に告げた言葉に、鶴丸は俺の頭をわしわしと撫でた。

「それを今から主にきちんと伝えてこいよ。そうしたら主の機嫌も治るだろ」

ぽん、と叩かれた肩に暖かさが滲む。
持っていた味噌を軽々と鶴丸は奪うと、ほら、と主の部屋を指さした。

いつもは締め切られたままのその部屋の窓が、今は何故だか大きく開け放たれていた。




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