それは自己防衛



 校庭のトラックを揃いのジャージ姿が走っている。何人かがはっきりと後続に差を付ける速度を出して、他は塊になって冬の校庭をぐるぐるとまわっている。
 二階の窓から見ると走る彼らの顔や、ひょっとすると飛ぶ汗までも見えそうで、知らず一心に眺めていたところで頭を後ろから叩かれた。

「ノート、さんきゅう」

 ぐるりと首をめぐらせて後ろの席の、坂田をにらみつける。
 手にしたノートで叩かれたらしい。かかげたそれは自分のものだ。坂田の手からノートをうばいとると、前を向いた。

「な、誰見てんの?」

 日本史の教師は、生徒が上の空でも私語をしても授業に支障がない程度ならわざわざ注意はしない。今だって坂田に目もくれなかった。
 貸した英語のノートの表紙を一応確認すると、無地だったそのスミに走り書きがあった。

(きょうおまえのりょうのへやいっていい?)

 オールひらがなの読みにくい文章は、字の雑さも手伝って一瞬意味がとれない。
 脳内で漢字に変換しなおし、今日、おまえの寮の部屋行っていい?、理解する。

「だめ」

 振り返らずに小声で、でもきっぱりと拒否をすると坂田が後ろでええー、と声をあげた。

「なんでだよ、生理?」
「来るかバカ。今日は沖田の勉強見てやるって約束してあんだよ」

 何の気なしにぱらりと英語のノートを開いて、そこに綴られた英文を読む。ひとつ下の沖田総悟は部活の後輩だが、なつかれているという感覚はない。この勉強の面倒だって本人から頼まれたわけではない。

「……土方って、バカだよねえ」

 坂田が吐息を漏らしながら言うもので、睨み振り返ると、思っていたよりまじめな顔をした坂田と目があった。

「土方って、ほんと、ばか」
「なんでオレがバカなんだよ」
「…外、寒そうだよな」

 話を逸らすつもりなのか坂田が目を逸らして、窓から校庭を見た。つられて外を見ると、校庭でマラソンをしていた生徒たちはもう整列して整理体操をしていた。
 生徒の前に立つ体育教師の後ろ姿の横に、ぽつんとちいさな影があった。彼女は細い身体で、なにか手にしたバインダーに書き付けている。
 彼女は走れない。マラソンなんて出来やしないのに、体育の授業があればちゃんと外へ出て、教師の手伝いをして50分の授業時間を過ごしている。

「ミツバさん、また検査入院なんだろ?」

 目線の先が坂田と重なっていることくらい気がついていたけれど、いわれたことばにすこし肩がゆれた。

「……そんなのもう、慣れてるだろ」

 自分も、彼女も。
 言外にいったその意味をくんでくれたのかはわからない。

「土方はほんとうに、ばかだなあ」

 坂田がなんだかかなしそうに言うから自分までかなしくなってしまう。
 べつに走れなくたってかまいやしないのだ自分が代わりに、彼女を背負ったっていい。自転車のうしろに乗せてやったっていい。
 それでかまいやしないのに、いつだって代わりに走ってやる準備はできているのに、それでひとつだって彼女を救ったことにならないのが無性に、かなしい。

「なあ」

 坂田がイスの脚をけった。

「やっぱ今日、おまえの寮の部屋行っていい?」
「だめ」
「行って、待ってたらいい?」
「だめ」

 振り向かず、坂田の顔も見ないでいると、またイスをけられた。

「待ってたって、いいじゃん」
「…だめ」

 拒否した声にかぶせるように教師が、ちょっとそこさっきからうるさい、と坂田の席と自分の席のあいだくらいの位置を指さした。
 はあい、と坂田がこたえる。
 坂田がこたえるときに、となりの席の女子が好意的にくすりとわらうのが見えた。
 授業時間はあと三分をきっている。
 校庭に、もう生徒はいなかった。
 つん、とセーターの背中をつつかれたのを後ろ手ではらって、横目でこっそり坂田をにらんだ。

「おまえ、今日くるなよ」

 目が合うと坂田はうーん、とはっきりしない返事をした。

「待ってんなよ」

 念をおすようにして言葉をかさねても、わかったとかうんとか、そういう返事はなかった。
 そろそろ前をむかないとまた教師になにかいわれそうだったので視線を戻しかけたそのときに、坂田の口がひらいた。

「土方ってほんとなんでそんなに、」

 いいかけた、瞬間に、チャイムが鳴る。
 時計の針が、チャイムより遅く終了の時間をさした。
 はいじゃあおわりますといってさっさと教室を出て行くスーツの背中をちょっと見つめていると、坂田がトイレといって立ち上がった。

「え、ああ」
「うん」

 猫背で教室のまえをよこぎっていく坂田を追うように、となりの女がたちあがって小走りにかけていく。
 そういえば坂田がなにかいいかけていたな、と思うが、たいてい坂田は聞き逃した言葉をもう二度といってはくれない。
 なにをいいかけたのか考えて、ふと、あいつもう寮の部屋にこないだろうなという予感がした。
 それは今日だけのはなしではなくて、明日も明後日もこれからずっとこないんだろうという予感だった。
 根拠のない憶測は直感的で、だからこそ、理屈よりもはるかに自分自身への説得力をもっていた。

(あいつもう、待ってくれないんだろうな)

 いままでとおなじように手放した坂田という存在を惜しいとは思わなかった。
 そうかこういうところを、もしかしたらばかだといわれたのだろうかと思う。
 結局ホームルームになっても、坂田ととなりの女は教室に戻らなかった。

(きっとあいつ、もうオレのノートなんか借りたりしないんだろうな)

 ノートの表紙の文字はまだ消していない。





   おわり









 教室を出ると、廊下の壁に背をつけて、しゃがんだ坂田が携帯の画面をのぞいていた。
 カシャッ、と鳴る、シャッター音。

「いえーい土方の顔ゲットー」
「…なにしてんだおまえ」

 坂田はだまって立ち上がると、首筋をかいて、ううん、とまた煮え切らない返事をする。

「だあからさあ、」

 ぶらぶらとストラップをもって携帯をゆらしながら坂田が、言葉を探すようにしたを向いた。

「待ってるって、いってんじゃん」

 そんなのいい、とはねのけようと口を開きかけて、ぐっと喉がつまった。
 とてもかっこわるい。
 坂田の世界からいなくなったつもりだったのに全然そんなことなかったという事実もそうだし、坂田を世界から押しのけたつもりだったのに全然そんなことできていなかった自分もそうだ。とてもかっこわるい。

「土方ってほんとなんでそんなに、ばかなのかなあ」

 うっせ、おまえ今日の午後だけで何回ばかっていった、と坂田の脚をけると、坂田はうれしそうに、よんかい、とこたえた。



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