すこし勘違いをしてしまったんだ。きみがあんまり近くにいてくれたから

(ぼくを透かして)

 それがいつからだったか、土方はよく覚えていない。物心つくまえ、であったことは確かなのだと思う。
 怖いとか、気味が悪いとか、そういった感情を抱くまえから当然のように自分のまわりにはそれらがいた。恐ろしいのだと思うようになったのはずっと後のこと。それを人に話して、避けられるようになってからだった。
 父母より長く時をともに過ごして、それでもそのいわゆる幽霊、霊魂、形ある魂を厭うようになったのは、おそらくは人間のせいなのだ。

「でも土方はオレのことは嫌いにならねえのな」
「嫌いだよ。おまえが一番」

 土方は手にした塩を坂田に投げつけて、それから自分の肩にまぶした。

「ぶへっ。しょっぱ」
「だいたい幽霊のくせにおまえは実体が濃すぎるんだ。これじゃあ生身の人間と変わんねえじゃねえか」

 清めの塩を肩から払うと、誰もいない家の玄関で革靴を脱いだ。式中からずっと制服の詰め襟をホックまで閉めていたことに気づいて、いまさら息苦しさを感じてそれも外す。平日の午後、家には誰もおらず、午後の授業だけを受けに高校へ行く気もおきずに土方はリビングのソファにぼすん、と腰掛けた。
 坂田はその後ろで、立つでも座るでもなく、ソファの背にもたれかかっている。その足先は特に地面から浮いているわけでも透けているわけでもない。

「ま、幽霊って名前つけたのはおまえらなわけだから」
「全然幽かじゃねえ」
「比較対象の問題じゃねえ?人間と比べたら、オレなんか儚い儚い」

 坂田はそういって笑うと、ソファの背を飛び越して土方の隣に座った。身体の動きにあわせてソファも揺れる。視えない人間からするとそれはとても奇妙な光景、であるらしい。ソファが勝手にへこんだり、誰もいないはずのソファに座ろうとすると下に人の感触がしたり。
 確かにそれはホラーだ。と土方は思うけれども、実感としてどんな感覚なのかはわからなかった。
 坂田は霊のなかでも特殊だ。
 霊のなかで一番嫌いというのは嘘ではないが、一番怖くないとも思う。

「おまえなんかより、人間のほうがずっとはかない」

 隣に座った坂田は、ううん、と声を漏らした。

「オレももともと人間ですけどね」
「ふん」
「だけど確かに、生身の人間ってもろいなあと は、思うよ」

 土方は制服のボタンをいじって、斜に構えた視線で床を見た。制服からはまだかすかに抹香の臭いがして気をめいらせる。

「でもばばあ、綺麗だった。死に顔」

 坂田がいうので、わけもなく土方は救われるようだった。
 確かに、喜寿を過ぎた祖母の顔はほどこされた最期の化粧でほんのりとしあわせそうにさえ見えた。
 年齢から見ても大往生で、最期の数日間こそ病院のベッドの上だったものの、ほとんど苦しまずに息を引き取った彼女はしあわせだったのかもしれない。

「……うん」

 霊が視えることといい、何かにつけ変わっていた土方をいつも助けてくれた祖母とは中学のあたりから徐々に疎遠になって、入院をしてからも大事ないという父母の言葉を真に受けて結局見舞いにも行けずじまいだった。
 高校生はまだ来なくていいという父の言で火葬場まで行かずに葬式にだけ出た土方は、まだ祖母との別れができていないようなそんな気がしていたのだ。

「しあわせだったかな」
「しあわせだったろ」

 こだわりなく坂田が返すものだから、土方はそうだっただろう、と思える。

「なあ坂田」
「なんだい土方くん」
「うわドラえもん口調うぜ…」
「なんだよ」
「おまえはなんで死んだんだ」

 坂田が隣で身じろぎもせずにすこしだけ息を強ばらせたのがわかった。
 思えばもう十数年、坂田は土方の隣にいた。
 土方が生まれてからずっと坂田は土方の隣で、いまの姿のままで立っていた。高校一年生の土方よりも大きい背。

「今更だなあ」
「ずっと前にも、訊いた」
「そんときオレなんて答えた?」
「……とうにょうびょう」

 坂田がすでに死んだ存在だということを知ったのは、いつだったろう、幼稚園に通い出したころだったと記憶している。
 やはり誰か親戚の葬式があって、まだ黒の半ズボンを喪服として着るような、土方がそんな年齢だったころ。
 読経のときも坂田は土方の後ろであぐらをかいていた。
(さかた。そうしきのときに、鼻くそほじってたらいけないんだよ)
 そう言うと隣の母に小声でしかられた。じゃあなんで鼻をほじる坂田のことをしからないのかと言っても母は聞く耳を持たなかった。
いま思えば当然母に、さかたなんて人間は見えていなかったのだ。
(バーカ怒られてやんのだっせー)
 坂田が言った。
(さかたのせいだろ)
 母に聞かれぬようにぽそぽそと、むくれて言うと坂田が笑った。
(おまえとちがってオレは葬式でなにしたっていいんだよ)
(なんでだよ)
(もう死んでるから)
 死という言葉を知っている。それがもたらす永遠の別離という現実を知っている。
 それと目の前で鼻をほじる坂田の存在の圧倒的なへだたり。
(死んで…?)
(そう、もう死んでんのオレ)
(じゃあもうおそうしきすんでるの?)
(たぶん)
(じゃあさかたっておばけだったの!?)
 思わず声を高くすると、周囲の人間が視線だけで土方をねめつけ、向き直りざまさらに厳しい視線を母に投げた。
 母がかっとして手をあげて、あげようとして、頬だか背中だか頭だか、とにかくは土方に向かって振り下ろされようとした手の平を押しとどめたのは祖母だった。こどものすることなんだから、となだめた祖母は、毅然とのびた背筋に乗った厳格そうな顔に似合わず、優しいひとだった。
 記憶を手繰るとそのとき庇ってくれたのは祖母ばかりではなく、母の振り上げた手と土方の間には坂田の腕もあったように思うのだ。
 生きた人間とは極力接触しないようにしている坂田が本当に腕を伸ばしていたのかそれともそれは土方の願望なのか、今ではもう判然としない。
 どちらにしても母に叩かれることのなかった土方は自分にいまどんな危機が迫っていたかも気づかずに坂田に迫る。
(さかたはじゃあなんで死んだんだよ)
(オレえ?オレはねえ)

「糖尿病かー…」

 感心したふうに、坂田は頷いた。

「おまえよくそんなちっちゃかったのに納得したね。糖尿病で」
「知らなかったよ。糖尿なんて。ただなんたら病って言われたら納得するだろあの年なら」
「つーかオレまだ二十代なのに糖尿で死んでんの?」
「やっぱり嘘なのかよ」
「嘘じゃねえけど。あー、あまいもの食べたい」

 はねるようにソファから立ち上がった坂田が冷蔵庫へと歩いていく。 この会話から逃げ出したかったのか、それともただ本当になにか食べたかったからなのか、土方にはわからない。
坂田は生きるために食物を摂取することも排出することもないが、趣味として甘味は食べ続けている。
 庫内を物色する坂田の背中がゆらゆらと揺れるのを眺める。

「おっ、いちごめーっけ」
「……そういえば坂田、おまえばあちゃんの葬式では鼻くそほじんなかったな」
「ええ?そりゃおめーオレだって年中鼻んなか詰まってるわけじゃねえよ」
「無駄口も叩かなかった」
「だって人前じゃ土方が返事してくれないもん」
「おまえ、ばあちゃんのこと好きだったもんな」
「はん?そりゃーおまえ、かわいい土方のばーちゃんだもんよ」

 冷蔵庫からイチゴを取り出し坂田は足で野菜室の扉を閉める。
 洗いもせずにイチゴを一粒手に取った坂田の頬が、ほんのり赤らんだように土方は思った。

「大好きなばあちゃんの孫だから、オレのこともかわいいんだろ」
「いやーオレしわくちゃのばばあよりはぴちぴちの男の子の方がずっといいわ。土方くんならなおいいわ」

 土方は、すこし微笑ましくまたちょっとねたましくも思った。
 坂田がこっそりと、祖母とふたりきり会っていたことぐらい知っていたのだ。

「…うそつけ」
「嘘じゃねーってば。オレ、土方くんのこと」

 坂田が皆まで言うのを待たず、なにかぼとりという音が部屋に響いた。
 飲み込んだイチゴが、どういうわけだか音をたてて床に落ちたのだ。

「……ん?」

 二人分の疑問符と注いだ視線は、まるのままキレイに床に落ちたイチゴの上で重なる。
 歯形もつかないその完璧な形状を守ったイチゴは、だのに床と接した面を醜くつぶしている。

「…あれ」

 声に続いて、さらにイチゴがパックごと落下する。
 坂田の手からこぼれおちたイチゴはつぶれて、かさなり、きずつく。

「どうしたんだよ」

 ソファから立って坂田のもとへ一歩足を踏み出しかけて、土方はぎくりと立ち止まった。
 透けて。
 透けている。
 坂田の指先を通して向こうの台所の景色が見える。透明なのに輪郭を保っている奇妙な様は、指から手の平手の平から手首へと、音もなくその範囲を拡げていく。

「坂田っ、」

 立ちすくんだまま叫ぶと、呼ばれた坂田はおっとりと土方を見た。

「ごめん、いちご、ダメにした」
「な、なんでおまえ、そんな、いきなり幽霊みたいに」
「いや、幽霊だしオレ」


 動けない土方の代わりに、坂田がソファへと戻ってくる。
 その足元は、すでに色も形も失って、わずかに燐光を放つ輪郭で存在そのものが失われているわけではないのだと確認ができる。

「し、死んじゃうのか」
「だからもう死んでるってば」
「で、でも、消えて、透けてる」
「幽霊だからな」
「そしたらおまえ、どこに、どうやって」

 混乱するばかりの土方は坂田の顔を見て、薄れゆく身体の端々を見て、また顔を見る。  そしてようやく思い至る。

「……ばあちゃん…」

 坂田は肯定でも否定でもなく首をかしげた。

「やっぱり、ばあちゃんなのか」
「いやいやオレ男だからよくてじいちゃんだな」
「…ばあちゃんがいたから、おまえは死んだのにここに残ってたのか」

 坂田は首をかしげたまま、笑った。

「…そう言うと、オレが熟女趣味みたいだよなあ」
「ふざけんなよ」
「おまえのばーちゃんとオレが?」
「…そうだよ。ずっと、ずっとそうじゃねえかって思ってたんだ。坂田が年をとらないなら、ばあちゃんがまだ若かったころ、会ってたって、不思議じゃねえし、それにばあちゃんと坂田は仲がよくて、っ……、」

 言葉が詰まって、土方は強く息を吐いた。
 同時に押し出されたのは涙だっただろうか。

「坂田が、オレのそばからいなくなるなんて、ばあちゃんと会うとき以外なかったじゃねえか…っ」

 しぼりだした声は震えていた。
 生まれてからずっと坂田は土方の隣にいた。ずっと鼻くそをほじったり、無駄話をしては土方を、困らせた。
 小学校に上がったくらいから自分は周囲の人間と決定的に違っていると悟った土方が、それでも霊的存在を疎んじこそすれ憎みきれなかった理由は坂田がそばにいたからこそだ。

 土方は、自分よりもすこし背の高い坂田の胸を、掻くように掴む。
 取りすがるよりは爪を立てるようにして、まだ実体の濃い胴を現実につなぎとめるように、掴んだ。

「……土方ー、」
「ばあちゃんとこなんて、行くなよ」

 透明になった坂田の指、もうあたたかさしか残らない指が、土方の手をなでた。

「オレとばばあは、土方の思ってるようなラブコメ的関係じゃねえって」
「…どこにコメディー要素があったんだよ…」
「好きな女がばばあになるまで、死んでからもつけ回してたら立派なコメディーだっつの。オレはばばあがババアになってからしか知らねえよ」

 長い髪を結って着物を身につけた祖母は、時折はっとするほど美しかった。

「死んだのになんでだか死にきれずに、こっちに残っちまったオレが、墓のまわりでうろうろしてたとこでばばあに会った。だから、ばばあだってオレが生きてたころのことは知らねえんだよ」

 そうなのか、と安堵した自分に、土方は知らず驚く。
 なぜ安堵なのだろう。

「ばばあが持ってた、土方のじーさんの墓に供えるまんじゅうを、こうな、こっそり貰おうと思ってて」
「最低なヤツだ」
「聞こえないのはわかってたけど、もらっちまうけどいいっすか、って一応言ったんだよ、ばばあに」

 祖母は日を決めずに、気が向けば祖父の墓に詣でるひとだった。
 それは土方が生まれるまえからの、若くして祖父が亡くなってからずっと続く習慣だったと父が言っていた。その父も、祖父と祖母の子ではなく、祖父が亡くなってから祖母が養子にとったこどもだ。
 だから祖母と土方にも血のつながりこそないが、どこか祖母と自分は似ている、と思っていた。
 祖母が言っていたから、自然とそう思えたのかもしれない。
(あんたとわたしは、似ているね)
 たとえばそれは、視えないはずのものが視える、というところでも。

「……ばあちゃんは、坂田が見えた」
「死んでから、たぶん初めてだな。怖がられるわけでもなく、ふつうに返事かえされたのって」

 土方は祖母の横顔を思い出す。
 煙草を咥えた横顔はやけに、凛々しく記憶に残る。
(護ってやるだなんて、えらそうな口聞く男がいてね。わたしはね、血族こそもう誰もいないが、自分で作った家族ってヤツに、たいがい満足してるんだよ)
 祖母は土方の頭をよくなでてくれた。

「オレがあの世にちゃんと行けるまでは、ばばあに何事も起こらねえように幽霊らしく草場の陰から見守っていてやろうって仏心でここに留まった。留まってたら、居心地がよくて、ばばあのことは確かに好きになった。世話になった。時間が経つのがはやくてよ、いつの間にかばあさんの息子にガキができたっていうじゃねえか」

 坂田が、土方の頭に手をのせる。重みもなく、ただ空気がすこしぬくまったような、そんな些細な感覚。

「…オレのことか」
「そう、土方、十四郎」

 土方は、坂田の胸を掴んでいた手を離した。

「猿みたいで、かわいかった」
「猿」
「いや、天使のようでかわいかった」
「猿かよ」
「……まあそれで、土方がばあさんと同じように、やっぱり視える人間だっていうことがわかって、それで、護ってやってくれって、ばばあが言ったんだ」

 ずくりずくりと胸が痛んだ。
 それは坂田と祖母が恋仲でなかったことへの安堵と、それでもやはり心を通わせる坂田と祖母への嫉妬と、底知れぬ愛情への幸福感がもたらす痛みだった。

「でもな」

 坂田は言ってから土方に腕をまわした。
 ほとんど透明に変わった坂田の腕が、土方を包む。

「ばばあに頼まれなくたって、オレは土方のそばにいたよ」

 するりと抜け出せてしまえる坂田の透けた腕から、こぼれおちないように土方は身を強ばらせた。

「…でも、坂田はばあちゃんに連れて行かれるんだろう…っ」
「土方」
「坂田が、坂田がばあちゃんの病院に行ってたのは知ってたんだ。なのにオレは、大事になるなんて思わずにいつも通り過ごして、見舞いにも行かなかった、から、ばあちゃんが坂田を連れてくんだ」
「…あのばあさんはそんなことで拗ねねえだろうに」
「……だって、オレはまだ坂田に、坂田の背に追いついてもいないのに。オレはまだ坂田がいないとひとりじゃ幽霊が怖くて歩けない」
「オレも幽霊ちょう苦手」
「知ってるっ…、っ、成仏なんてするなよ、まっすぐ死んでなんか行くなよ、どんなに屈折したっていいから、ここにいろよ」

 無理を言っているのだと土方だって自覚していた。
 それでも坂田を引き留める何かが土方は欲しい。
(あんたとわたしは、似ているね)

 祖母の笑顔が胸を灼いた。

「オレは、坂田が、好きなのに…っ」

 ぼとりと、土方の膝が床についた。
 被われていたぬくもりの消失に、息が止まった。
 ゆっくりと頭をめぐらせて、あたりを見渡す。
 いつも通りの、リビングだ。冷蔵庫のまえの床には真っ赤なイチゴが点々と落ちて鮮やかだ。

「……さかた……」

 返事はない。彼はいない。
 ああ、と喉の奥から声が出る。それが声ではなく、嗚咽だということにはすこししてから気がついた。
 手を伸ばしても届かない距離に、坂田は行ってしまったのだ。

「…あああ、ああ、うあああああ」



 ***



 晩秋の、深い色をした夜だ。
 空は滑らかに深い青色で、爪痕のような月は白く、ほんのわずかに黄みがかってほの明るい。
 用意が調っていることをもう何度目か、確認しながら土方は夜が深まるのを待つ。
 オレンジと紫の色が目立つ街のイルミネーションは土方の住むマンションからもよく見えて、手にしたあめ玉をそっと唇におしあてた。

 夜景にじっと目を凝らしていると、間延びした音で呼び鈴が来客を告げた。耳に残るチャイムの余韻の聞きながら廊下を渡りドアノブに手をかける。
 ドアを開けると、そこには彼が立っている。

「トリックオアトリート」

 土方は笑う彼にあめ玉を渡す。

「イチゴは季節じゃなくて高いから、あめで我慢しろよ」
「じゅうぶん。だいたい、お菓子くれてもイタズラする気まんまんだからね」

 坂田は言って、同じ背丈になった土方の肩に腕をまわした。

「今年も、待っててくれて、ありがとう」

 出会ったころと変わらない坂田がそう囁くので、土方は泣き笑いで笑った。





おわり







(なんでおまえ、日本の霊のくせにハロウィンに帰ってくるんだよ)
(え?オレ日本人だなんて言ったっけ?)
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