(ぼんやり3Z設定坂田と土方)


おめでとうが言いたくて


 高校の制服が冬服に替わって、三期制の高校では秋休みが始まった。土日の休みに体育の日を挟んで、火曜日から木曜日までの三日間も授業はない。六日間に渡って与えられた休暇だが、その恩恵をついに土方は受けることができないようだった。
 市内でも剣道の強豪校として有名な土方の通う高校の剣道部では、日曜日をのぞいた全日が練習日に指定されている。
 剣道部副主将を務める土方は当然毎日練習に参加するつもりで、初日の今日も朝から夕方まで竹刀を振るっていた。

「あ、おつかれさまです副主将」

 マネージャーの山崎が、胴着を脱ぐ土方の後ろを通りすぎざまに頭を下げた。
 彼もまた秋休みを経験することができなかった生徒の一人だ。

「おう」

 面手拭いをとった土方は髪からしたたる汗を腕でぬぐって、視線だけを山崎を向けた。
 その手には練習スケジュールを留めたバインダーと、部室の鍵が握られている。

「副主将、これからシャワー浴びますよね?」
「…ん、そうだな」

 剣道の名門校とはいえ公立の普通科の学校のことだから、シャワー設備の規模もたかが知れている。
 体育館で稽古をする剣道部は、他の運動部が運動場に面した別棟に部室を構えているのに対し、体育館の裏手の一間を部室として使っている。運動部用のシャワー室は部室棟にあるため、剣道部の部室からはすこし離れているのだ。
 部活帰りに用事があるわけでもない土方は、汗まみれで帰ったところで不都合はない。
 自転車を飛ばして帰れば家につくころには汗は引いてしまうし、家の綺麗な風呂場でシャワーを浴びることだってできる。
 このまま汗を放置する不快感と、別棟にあるシャワー室へ移動するわずらわしさを天秤にかけている間も着替える手は止めない。

「もう誰もシャワー室いねえよな?」

 居残り練習が日課になっている土方が帰る時間、いるのは山崎だけだ。

「はい、だからすぐ浴びられますよ。そしたら部室の鍵、お願いしていいですか」
「ああ、おつかれ」
「おつかれさまです」

 ドア横のロッカーの上に鍵を置き、一礼して山崎は部室を出ていった。
 部員全員が帰宅しシャワー室にも部室にも部員がいないことを確認して担当教員へ届けなければいけない、というのが休日練習の面倒くさいルールだ。
 土方はワイシャツに制服のズボンという、いたって気楽な姿になると鍵を持って外へ出た。登下校時には学ラン着用が冬期の義務だが、校内では基本的にはどんな格好をしていても自由だったから、一番シャワーを浴びるのに手間取らない服装になる。
 部室のドアに鍵をかけると、土方は運動場を横切ってシャワー室へ向かった。

 午後七時半、外に出ればもう空は暗い。
 休日練習は午後八時までしか認められていないために今の時間、校内にほとんど人影はない。
 時間いっぱいまで練習をするような熱心な生徒は多くはなく、特に剣道部のように午前中から稽古をしている部では六時上がりが普通だった。
 夜の学校というのは、たとえ校舎の窓からまだ明かりが見えていようと、職員室に教師の姿が認められても不気味なものだ。
 不気味というよりも、何か違うという違和感。
 平日の夜の学校にも抱くその印象が、休日の今日はさらに強く感じられた。

 十月の冷たい風にさらされて一気に冷えた汗に、ぶるっと身体が反射的に震えた。

(さっさと熱いシャワー浴びて、帰ろ)

 シャワー室は特別施錠がされているわけではない。
 土方がドアノブを回すと同時に、奥からさああ、と水の流れる音が聞こえてきた。

 開けたドアの前に立ち、土方は数秒まばたきを繰り返す。
 夜の学校、誰もいないはずのシャワー室、響く水音。

 学校の、怪談。

(いやいやいや、普通に居残り練習してた運動部のヤツに決まってんだろ、うん)

 中に入ると、シャワー室はさらに壁でしきられそれぞれが半個室になっている。それが三つ並んで、ひとつの部屋になっているのだ。
 入り口から一番遠い、奥の三番目のシャワーから、水音は響いている。
 半個室、という特性上、手前だろうが奥だろうが誰がシャワーを浴びているかはすぐ判別できる。判別できるはずなのに土方にはそれが誰かわからなかった。
 水音は確かにしているのに、人の姿が見えない。
 仕切りの壁は頭を隠すほど高くはないから顔が見えるはずなのに、それが見えない。

(いやいやいや、誰かが、シャワー出しっぱなしにしてっただけだろ)

 水音がする、誰もいない、となればそれはつまりそういうことだ。
 自らを落ち着けるためと勇気を出すために細く長く息を吐いた。剣道部の顧問が好んで指導に使う呼吸法の、神経を落ち着かせる作用があるというその効能の真偽は別にしても、緊張したら条件反射で実践するくらいに癖として土方にその呼吸法は染みついている。

(よ、よよよ、よし)

 思い切りびびりながらも土方はシャワーを止めるために、奥の個室へ近づいた。
 万が一明日までこのシャワーが出っぱなしになっていたら、なんとなく決まりが悪い思いをすることは目に見えている。

(それに、このままシャワー出してたら北極の氷が溶けちまうかもしれねえ……)

 昨日の夜に見たシロクマが主人公のドキュメンタリー映画を思い出して土方は責任感に腹を括った。
 大御所の俳優がナレーターをしていた、そのゆったりした語り口が聞こえてくるようですこし落ち着く。

(“シロクマを救うのはあなたです”)

 勇気を振り絞って個室のドアを押し、まずシロクマが割れた氷にのって流されていく光景をまぶたに浮かべた。
 ゆっくり個室を確認して、そして土方はとてつもない後悔と共に一歩後退った。

(“シロクマを救うのは、あなたです”)

 シャワーが降り注ぐ床の上で、ぐったり横になった白い物体。
 でもそれはシロクマには似ても似つかない、しかしシロクマよりは身近な存在で、学校の怪談への出演経験もない、坂田銀時、通称銀八。
 土方のクラスの担任教師だった。


 ***


「ちょ、ちょっと、あの……い、生きてますか……」

 お化けよりは怖くはない、しかし、全裸で床に転がった成人男子が恐ろしくないかといえばお化けとはまた別の意味で恐怖を感じる。
 
「……うううん…」
「あ、生きてた」

 くぐもった声をあげた坂田に、それでも覚醒する様子はない。
 熱いシャワーが坂田の背中を打っており、それはそれで気持ちの良い体勢なのかもしれないがまさか一晩中そうしているわけにもいかないだろう。
 土方はシャワーコックに手を伸ばして、閉と書かれた方にコックを捻る。
 勢いをなくしたシャワーはやがて止まり、土方のワイシャツの腕がすこし濡れた。水音がなくなると、途端にしんと静まりかえるシャワー室。

「先生、風邪ひきますよ」
「…ぐぁ…う゛ー」

 その微笑ましくもなんともない寝顔をぺちぺちと叩いて、坂田を起こそうと試みる。

「おい、おいってば」

 何度はたいても反応らしい反応はなく、わずかに眉が寄っただけ。仕方なくさらに肩をゆすってみようと坂田の肩に両手をかけた、かけた、両の手首をがっしりと掴まれた。
 濡れた手の平は坂田のもので、彼は胡乱げな目つきをして土方を見ていた。

「…え、あ」

 なぜか言い訳を探して隙のできた土方を、坂田は寝技をかけるようにぐるりと床へ倒した。
 反転した坂田は土方にのしかかる形になり、とっさになんの抵抗もできなかった土方は背中をびっしょり濡れた床へ密着させたまま間近にある坂田の顔を呆然と見つめた。

「……は?」

 声に出たそのままの気持ちだった。

(は?な、なんだこれ)

 当然坂田は裸のままで、顔の近さはもとより明るい白熱電灯の下で身体の細部まで見えてしまうことにも戸惑いを覚えた。といっても、いまの状況では暢気に坂田の体毛の有無など確認する余裕もなく、ただ視界いっぱいに肌色が氾濫しているだけだ。
 目をきつく細めて土方を見る坂田は、やがてゆっくり確かめるように口を開いた。

「…ひじ、かた?」

 思わず何度も強く頷くと、坂田がやっと土方を拘束する手を離した。

「えー、なんだ、おまえ土方じゃん。うっわーあああ」
「はあ?」
「やー悪ィ悪ィ。メガネかけてねーから誰かぜんっぜんわかんなくて。思わず戦っちゃった」

 坂田は軽く言うと、上体を離してへらへらと笑った。それから自分が裸なのに気づいたようで、おおわ寒っ、と腕をさする。

「な、なにしてんですかあんた」
「お、いやー、ちょっと昼間っから飲み過ぎて、頭からビールかぶっちゃったもんだから、シャワー借りてたわけよ」
「なんで学校…」
「いや、近かったからさ」

 聞けば仕事が休みの坂田は昼間、というより午前中からホテルのラウンジやレストランをはしごして酒を浴びるように飲み、最後に行った店でシャンパンシャワーをされてそれを流すために学校のシャワー室を勝手に使っていたと、そういうことらしかった。
 たしかに個室の床にまるまっていた坂田の服からはもうかなり薄くなってはいたがアルコール臭がしたし、坂田本人からは言わずもがなだった。

「シャワー浴びたら戻るって言っちゃったんだけどなー…たぶんオレ一時間くらい寝てたよな?」
「知らないです」
「ああ、つうか土方のワイシャツがびっちょびっちょ」
「あんたのせいです」
「ていうか着るもの持ってない?ものすごく寒い。風邪ひく。無理」

 普段の授業から適当でゆるい教師だとは思っていたものの、これほどまでに傍若無人な態度をとる人間だとは思ってもいなかった。教師と生徒という一定の距離を縮める努力をする気も必要もなかった土方にとって、坂田はただの一教師で、担任だという一点のみにおいて他の教師よりすこし身近なだけの存在だった。

「……ないっス」
「え、ほら学ランとか学ランとか学ランとか」
「オレ着るんで。つか、オレが学ラン一枚で帰らなきゃいけないことに対してはなんの謝罪も埋め合わせもないんですか」
「あ、ジャージはジャージ。土方のジャージー」
「……」
「ジャージージャージージャージー牛乳」
「だめだこいつ脳みそぶっとんでやがる。死ねばいい」
「おいおーい、土方くんキャラ崩れ起こしてるぞーまじめキャラ演じきれー」

 坂田はまだ大分酒気が残っているらしい。
 よく見れば座っているのに身体がゆらゆら揺れて、いまにも倒れ伏して眠ってしまいそうな状態だ。
 いつもとろんとした半眼をしているので違いが定かではないが、顔つきもいつもの二割増し締まりがないようにも見える。

「…じゃあ、オレは帰るんで。先生は一緒に飲んでたご友人に助けてもらってください」
「土方がいじめるよう」
「いや、まじであんたなんなんすか。訴えますよ」
「なんの罪でー」
「猥褻物陳列罪」

 土方が個室から出ようとすると、坂田がその腰にしがみついた。
 しがみついて、離れようとしない。

「いやいやいやーまじ待って待って待ってー」
「うううっわあめんどくせえ酔っぱらい本気でめんどくせえ。そういうのは暇な大人同士でやれよ」
「まあまあそう言わずに。いつもお世話になっている担任を助けると思って」
「うううっわあああ。めんどくせえええ」

 頭を抱えた土方の腰にかじりついたまま離れない坂田が、がんがんと頭を振って土方に頭突きをした。

「いてっ、てっ、ちょっと何すんすか!」
「頭突き。イワークの必殺技」
「頭かち割りたい…」

 言う間もずっと頭を振り続けた坂田の動きが、突然ぴたりと止んだ。

(も、しかして)

 土方の脳裏に嫌な想像が浮かぶ。そして、

「…うおえっ、気持ちわる……っ」

 それは現実のものとなるのだった。
 前屈みに、つまり土方に頭を預けた姿勢でうつむいた坂田。

「ちょ、バカ吐くな吐いてもいいけどあっち向けよ汚ぇな!」
「大人は吐かない…飲み込む」
「さらに汚いこと言ってやがるこいつ」
「大人は儚い……」
「ほんとにな」

 腰にからみついた坂田の腕はまったく緩まず、土方はそれをほどこうと身体をひねった。
 ひねった瞬間に運悪く、床に散乱していた坂田の洋服の端を踏んづけた。びしょびしょに濡れた服は床との間の摩擦力を極限までなくしていて、土方は至極あっさりと、床に倒れた。
 ごつん、と嫌な音が響く。

(げ……)

 打ち所が悪かったのか、立ち上がれる気がしない。それよりも、ゆったりと頭に霞みがかっていく気がした。

(ちょ、待て待て待て。オレは、どう、どうなるんだ)

 そのまま土方の意識はうっすらと闇に消えた。


 ***


「…おーい…生きてるかー」

 なんだか聞いたことのある台詞が聞こえて、土方は目を開いた。
 しばしばとまばたきをすると、目に入って来たのはどうやら車内の風景、らしい。
 後部座席に横になった土方は身体を起こそうとして、すこし後頭部が痛むのを感じた。

(お、あ、あれ)

 状況が掴めず運転席の人物を見ると、それは坂田銀時だった。

「あ、て、てめえ飲酒運転!」
「いや、車動いてないし」
「え、あ、ああ…」
「それにあれから三時間くらい経ってるし」

 坂田の言葉に土方ははっとあたりを見渡す。
 窓から見えたのは学校付近の駐車場のようだ。慌てて着衣を確認すると、濡れていたワイシャツではなく見慣れないストライプのシャツを着せられていた。

「あー、ワイシャツさ、ちょっと友達に持ってきてもらったんだけど」
「あ、ああ…」
「濡れたのはクリーニングっつうか洗濯でいい?して返すから」
「はあ…」
「いや、ちょっと坂田反省。しています。すいませんいい年してやんちゃしてしまいまして」

 運転席の坂田が煙草に火を灯した。

「えー、それで、土方くん家に電話をしてみたんだけど誰も出なくってですね」
「あ、いま家族旅行行ってるから……」
「え、おまえは?」
「部活毎日あるし」
「あ、じゃあ明日も?」
「ああ、はい」

 ふと気まずい沈黙が流れる。
 それを壊したのが坂田の深い、深いため息だった。

「……えーと、で、あの、」
「つか、いまさら素面の先生に謝られても、オレもどうしたらいいのか」
「あー…うん」
「なんで、ふつうにもう、あの、飲み過ぎには気をつけてくださいってことで、これで……」
「いや待って待ってぷりーずうぇいと!」

 車を降りかけた土方の腕を坂田が掴む。

「いやオレ寝技は一日一回で十分なんで」
「ちがう!ちがくて」
「あ、べつに教育委員会に訴えたりも」
「いやそれは確かに大変ありがたいけどそうじゃなくて、頭」
「頭?」

 土方が条件反射で頭に手をやると、ぷっくり膨らんだたんこぶが手にあたった。

「頭、大丈夫?血ィ出てなかったけど、結構な勢いでぶつけて、いままで気失ってたわけだし」

 たんこぶを撫でてみるが、別にどうということもない。痛いは痛いが、それだけだ。

「いや別に。だいじょうぶです」
「あそお…」
「じゃあこれで」

 また車を降りかけた土方を坂田がさらに強引に押しとどめる。

「どうどうどう!」
「なんなんすかオレは馬扱いか!?」
「まーて、まてまてまって。あのですね、坂田も何も理由もなくはしゃぎまわったわけじゃない。ということなんだな」
「あんたが飲んだくれた理由なんて知らないです」
「だあから今からそれを説明するから、ちょっと聞いていきなさいって土方くん」

 どうどう、と、また言われ、これは大人しくしていた方がはやく解放されそうだと考えた土方はとりあえず座席に座り直した。

「で?」

 さっさとしろ、というオーラをごまかそうともせずに言うと、坂田は両手の人差し指をちょんちょんと突きあわせた。

「あのお、オレえ、実はあ」
「腹が立つので帰っていいですか」
「待ってまじごめん。話す話す普通に話す」

 坂田は煙草の灰を車に備え付けの灰皿に落とすと、うーん、と一瞬躊躇してから、

「オレ実は明日誕生日なんだ」

 と、言った。

「……で?」
「うん、いや、で、明日っていうのは実はあと数分でくるんだ」
「…で?」
「土方くんと共に誕生日を迎えたい乙女なオレ」
「あんた大丈夫ですかむしろあんたの頭が大丈夫ですか打ちましたよねそうとう強打してますよね」

 冷たい侮蔑の視線を遠慮無くなでつける土方に、坂田は頭を掻く。

「…うーん…やっぱそうなるか…」
「そうなるっていうかどうにもならないっていうか」
「じゃ、もっと直球に言ってみようか」

 坂田は灰皿に煙草を押しつけて消して、後部座席の土方をバックミラーごしに見た。
 土方も思わずミラーを見つめて、はじめて二人は今日、目線を交わした。
 坂田の顔が予想外に真剣で、授業中にも見たことなかったような表情をしているものだから土方はすこしだけどきりとした。
 車内は暗く、ライトがついていてもさして役に立っているようには感じられない。
 坂田のふっくらした唇が動いた。

「プレゼントくれ」


 end
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -