※薄暗いです
さよならを一輪
1.
ひゅう、と吹く風の音が、花を散らせる春。
ごほ、と病んだ咳の音が、障子戸のこちら側からも聞こえた。
ひたひたと、足の裏に冷たい廊下をわたって、部屋の前で立ち尽くす。
ためらいをのみこんで障子を開けた。
「総悟」
沖田は姉に似ている。この頃とみに、似てきた。
沖田は眠ってはいなかった。
鋭すぎる視線でうつろに宙をにらんで、しきっぱなしの布団に上半身を起こして座っていた。
背中の力無いまるみも、青白い首筋や鎖骨も姉の持ち物だったはずなのに、いつの間にか沖田はそっくり真似してそれを自分の物にしてしまった。
折れそうに細い頸のなかをひるひると空気が過ぎる。
「入らねえでくだせェ」
沖田が喋ると喉がごろごろと鳴った。まるで猫のような音は肺にたまった血の膿がたてる病の声だ。
やつれて艶をなくした顔が、土方を見た。
「マヨ臭ェんで」
視線が合う。
制止を受け入れたわけではないのに動けない。
沖田の目の色が思い出せない。日ごとに影を増しておどんでいくその色に見つめられて、敷居を踏んだまま、動けなかった。
それを認めて、沖田がほのかに笑う。
「…冗談でさ」
(似ている)
痛ましい姿は沖田ミツバと重なる。
鍛えられていた身体から筋肉は落ち、骨も細って、ますます彼は姉に似てきていた。
(似てなんかいない)
土方の知る沖田総悟という人物は、決して沖田ミツバに似てはいなかった。
沖田と土方、ふたりを隔てるのはただ敷居に刻まれた浅い溝それだけのはずなのに、手を伸ばしても届きそうにはなかった。
ごほ、と一際大きく沖田が咳き込んだ。
二、三度、痰がからまる音をたてて咳をして、一旦は深く息をはく。けれどそれでは治まらずに、今度は腰から身体を折り曲げて、布団に突っ伏すようにして病を口から溢した。
手の平で覆った沖田の唇の端からは土方の目からもはっきりと赤い血が流れていた。
白いシーツに点々と落ちた血が、病の足跡のようにはっきりと見えた。
「そ、」
「入んな!」
乗り出した身体を制するように沖田が吠えた。
そのあとも続く咳の音が耳に痛い。
何もできず何をしてやればいいのかもわからず立ちすくむ土方を残して、咳は数分後にやっと落ち着いた。
手の平で鮮血を受け止めて、取り落とした滴がぽたぽたと布団に落ちる。
沖田はぼうっと宙を見る。
その姿に、そうか部屋の障子を開いた一瞬前にもやはり彼はこうした病の発作に冒されていたのだ、と、悟る。
「…ひじかたさん…」
沖田が言うが、荒れた喉から絞り出された声はひどく耳障りで濁っていた。
沖田は土方を見た。
動かない土方の肩越しの何かを見つめるような視線で沖田が言った。
「そっから先、入らねえでくだせェよ」
病んだ瞳が外界の光を受けて瞬間閃いた。
「あんたを殺すのはオレだ。肺病なんかに、ゆずってやる気はねェんで」
そこには確かに彼がいた。
いるはずなのだ。
「…当然だ。オレもおまえも、労咳なんかにやられるタマじゃあ、ねえだろう」
ぽたりと、沖田の手から伝った滴が布団に新たな染みをつくった。
「あんた、また背が伸びたんじゃねえんですかィ」
「この年で伸びるか」
「ああ、そろそろ縮むほうの心配をしなくちゃいけねェ年ですもんねィ。聞いた話によると縄でわっかつくってそれで首くくるとちょっと背が伸びるらしいですぜ」
「死ぬわ」
「いいからちょっとやってみろよ土方あ。ここで見守っててやるからちょっといっぺん試してみろよ土方あ」
布団のうえで、そう言う沖田の顔こそ首をくくったように青い。
「いいからちょっとおまえは横になれ」
「へいへい。……あーあ。うちの母ちゃんは心配性でいけねえや」
ぽすんと枕へ頭を沈めた沖田は、言葉と裏腹、糸が切れたように身体を弛緩させた。
「もう、寝ろ」
土方に言われるままに、あるいはそれとは関係なく体力の限界が来たのか、沖田は静脈の透けるうすいまぶたを閉じた。
「…帰るんで?」
息を吐き出すついでに沖田がそう聞くので、土方は相手に見えないことを承知でゆっくりと首を横に振った。
「いや、もうすこしここにいる」
そうですか、と沖田はさして興味もなさそうに呟いた。
「オレのかわいい寝顔見ても、変な気起こさねェでくだせえよ」
障子の縁にもたれて、土方は沖田を真似るように目を閉じた。
「…はやく寝ろ。起きるまではここにいる」
沖田は笑ったのかため息をついたのかわからないくらいひそやかに笑った。
「やっぱりオレの貞操ねらってやがらァ」
閉じた土方のまぶたの裏では、むかしの沖田がねむっていた。
死んでいるのか眠っているのかわからない今の沖田の姿を、見守りつづける勇気はない。
(総悟がちゃんとねむったら、布団をとりかえてやろう)
それがやさしさなのだとは、どうしても土方には思えなかった。
そしてたぶんそれは沖田にとっても同じことだろうと、思った。
2.
音の鳴らない笛、まわらない風車、とばない鳥。
断片的な風景が暗闇に浮かぶように現れては消えて、ひとつの夢を作っていた。
斬れない剣、守れない盾、見えない旗。
不完全なものばかりが寄り添った夢のなかでただひとつ、花だけが現実のままだった。
風が吹けば散って、時が経てば枯れた。
そういうものなのだと、言い聞かせるように、花は散っていった。
(げほっ、ご、ごふ、)
無音を引き裂く音に、土方は我に返って目を開けた。
閉めた障子に背を預けたまま、浅い眠りについていたらしい。
状況を把握した途端に、背後から鳴る異音が不吉さを増した。
それは咳の、喀血の音に相違ない。
ごぷ、と液体のこぼれる音がして、それと同時に土方は障子を開けた。
「…っ、そ、」
かえてやったはずの布団が、今度はさっきよりも広く血の色に変わっていた。
変色したシーツと布団に埋もれて、沖田が俯して倒れている。
指が着物の胸を力なく掻いていた。
「総悟っ…、」
伏した沖田のそばまでかけてよって、膝をつく。
のばした手が触れたかわいた肌。
腕に抱くと、沖田は折れそうに揺れた。
「おい、死んでんじゃねえぞ、総悟」
汚れた口のまわりを袖でぬぐう。
血が口のなかで膜を張っていた。
総悟、ともう一度名前を呼ぶと唇が閉じて開いて、開いた。
「……だから、入って、くるなってあれほど」
こまかな咳と一緒に沖田が呻く。
「あんたに世話なんか、焼いてもらわなくてよかったのに」
「んなこと言ってる場合か」
「…伝染ったら、どうするつもりなんでィ…」
血の泡がくちびるの端に浮かんだ。
蒼白な肌の下に、まだこんなにも赤い液体が流れているのがいっそ不思議なほど沖田の血はあざやかな色をしていた。
「オレはマヨネーズでちゃんと栄養とってるから大丈夫だ」
腕のなかで沖田は脆く軽い。
彼の体重を支えたことくらいこれまでに何度もあったが、そのどの時より今の沖田は軽かった。
「は、あんたくらいバカだったら病気も裸足で逃げ出しちまわァ」
焦点の合わない目をした沖田が口元だけで笑った。
「オレだって、あんたよりはやく死ぬつもりはねえんですけどねィ…」
「たりめーだ。まだてめえに預けた仕事ものこってんだ。死んで、どうする」
「この期に及んでまあだオレに仕事さす気たァ、こいつァどうやら本物の鬼らしいや」
けふ、と沖田がかるく咳き込んだだけで血が飛んだ。
肌と着物が擦れて、長く伏せっていた病人が発する、変にぬくいにおいが立ち上る。
「……あんたひとりくらい、刀握れるうちに殺しておきゃあよかったなあ…」
ねえ、と沖田は同意を求めるように土方を見たが、その目と視線を交わすことはできなかった。
「今のオレじゃあ、あんたみたいなクソ可愛くもない黒猫一匹殺せやしねえや」
血濡れの沖田の手が、土方の顔に伸ばされた。
その手が、頬をなでて、形をたしかめるようにつたなく動く。
「…ペット残して死んでく飼い主ってのは、こんな気分になるもんですかねィ」
「誰が誰のペットだって」
「土方さん、ねえ、ちょっとくらい、泣いたりとかしてみせてくだせえよ」
針金のような指が頬をたどるたび、その指から力が抜けていった。
土方は沖田の手を支えて、頬にあてて、かわいたままの目を伏せた。
「つめたい手だな」
「心があったかい証拠でさァ」
「泣いたほうがいいのか」
沖田の指が、土方の手のなかでかすかに動いた。
沖田はゆっくりと目をほそめた。
「…やっぱり、やめてくだせェ。泣いてるあんたを、見たくなんかねえや」
だから、と続ける。
「もう、部屋、出てってくだせェ」
土方の手を、沖田の細い指がつつむように曲げられた。
そのたよりない温かさには憶えがあった。
(似てなんかいねえのに、な)
「もう、ここ、来ないでくだせェ」
ささやくような沖田の声は嗄れた喉の奥で消えてしまいそうだった。
3.
天井の染みが人の顔に見えて怖い、と、そんなことを言って沖田が布団にもぐりこんできたのは夜の一番暗い時だった。
「オレの部屋にはどうやら女の呪縛霊でも住みついてるみたいでさァ」
「奇遇だな。オレの部屋の、布団のなかにも、呪縛霊がついさっきから住みつきだしたらしい」
「へえ、もしかして屯所全体呪われてるんじゃねえですかィ」
しゃあしゃあと言う沖田は土方の掛け布団を引っ張って自分の身体を温める。
右半身が布団から出た土方が布団をとりかえそうとするとさらに身体にまきつけて布団を根こそぎはぎとっていく。
「てめ、総悟、ひとの布団入るならせめて大人しくしてろ!」
「土方のものはオレのもの」
「どこのガキ大将だ、おまえ」
「土方のくせに布団なんか使って、分相応って言葉を知らねえんですかィ」
「ジャイアンはそんなえぐいこと言わねえ。…わかったよオレがおまえの部屋で寝りゃいいんだろ…」
半身を起こしかけた土方の腕を、沖田が引いた。
その引力に、なかば意識的に身を任せて布団に落ちた土方は、沖田がキスをしてきたのもなかば意識的に受け入れた。
「…ん、っ」
ああこんなにやわらかいんだな、とまず思い、それから浮かんできた彼の姉の顔を、目を瞑って思考から追い出した。
「土方さん」
「……あ?」
「土方さんみたいな人でなし、面倒みてやれるのはオレくらいなもんだと思いますぜ」
「いや山崎に頼む」
間髪いれずそう言うと、はは、と沖田はかるい笑い声をたてた。
「本当に土方さんは、人でなしなんだから」
ねえ、と沖田がささやく。
「あんたを看取るのはオレだって、これはずっとまえから決めてあることなんですぜィ」
言われて、呆れたように眉を下げた。
「勝手に決めるな」
「あんたの人生まるごと、オレのもんにしていいですかィ」
「ガキか、ばか。無茶言うな」
「あんたがどんな人生歩いても、最後にとどめさすのは、オレの役目にさしてくだせえよ」
沖田が土方の手をとって、キスをして、噛んで、キスをする。
「…死に水くらいは、てめえに頼もうか」
そう言うと沖田はうん、と静かに頷いて土方の胸に頭を寄せた。
「約束ですぜ。勝手に死んだりしやがったら、もう一回ものすげえ苦しめて殺しますからねィ」
「楽しみに待っててやるよ」
沖田の髪をなでると、それはやわらかく、ふくよかであまい匂いがした。
死の影も見えない彼のただ温かい身体は、きっとその時、土方にとって救いだった。
女の呪縛霊は沖田の部屋から出て行っただろうかと、そんなことを考えながらその夜、ふたりで眠った。
そんなむかしを、今になって思い出す。
時を経た今、もう同じ道を歩くことは叶わないと知ってしまった今、人生のまるごと全部を受け入れあったと思っていた過去が切なかった。
(そんなことできやしないって、なんで女の呪縛霊は教えてくれなかったんだろうな)
沖田の眠る部屋の前で、土方は立ち竦んで夜を見上げた。
(それくらい、ミツバが教えてくれてたのにな)
暮れたばかりの夜の空には、つめたくもあたたかくもない無情な風が飛んでいた。
(あいつがオレより先に逝くなんて、思ってもみなかったんだ)
(だれもそれを止められないことくらい)
(知っていたはずなのにな)
散った花びらが、たよりなく頬にはりついた。
そういうものだと言い聞かせるように、花は容赦なく散っていくのだ。
4.
風邪はひとに伝染したら治るという。結核はどうだろう。
文机に向かって書類に判を押しながら、ふとそんなことを考える。
(馬鹿な)
一枚紙をめくり、事前に確認した内容と相違ないかだけざっと見渡し、判を押す。
(治らねえから、伝染病だ)
新しく認め印を押したその紙を書類の一番上に乗せると、土方は煙草に手を伸ばした。こんなに汚い空気ばかり吸っている自分が肺病になるならいざ知らず、一体あの姉弟は何を吸って患ったのだろう。
副流煙。
嫌な想像が脳裏に浮かんだ。
(そういうもんじゃねえ)
わかっていても、何が原因かわからないまま病に倒れた彼と彼女と、長く時を共にした事実は確かに存在する。
時計を確認すると、もう夜中の2時をまわっていた。
明日も早いからもう寝ないとならないとわかっていても、冴えた目では眠れそうになかった。すこし歩こう、と、部屋の障子戸を開ける。
銀の月が坪庭から見えた。
季節は曖昧に進んでいく。
沖田が屯所を去ってから、見える景色や感じる気配が変わった。どれもこれも磨りガラスを通したように曖昧になって、ぼやけている。
まるで世界中に涙の膜が張っているような。
感傷的な喩えをする自分がおかしくて、土方はすこし笑った。
「ああなんだトシ。まだ起きてたのか」
後ろから声がかかって、振り向くと、片手をあげた近藤がいた。
近藤にならって、土方も煙草をもった右手をかるく持ち上げる。
「よお。近藤さんこそ。珍しいな、この時間まで起きてるの」
「いやいや、ちょっと寝付きが悪くてな。道場で素振りをしてたらつい遅くなっちまって……」
見れば近藤は首からタオルを下げている。竹刀は道場に置いてきたのだろう。どれだけ長く稽古をして来たのか、彼の手の平は豆が潰れて血が滲んでいた。
「それ、薬いるか?」
土方が血豆の傷を指さすと、近藤はからからと笑って手を振った。
「いやあ、夢中になって竹刀振り回してたらこのザマだ。見た目より大したことねえから、部屋に帰ってから自分でやるよ。ありがとうな。トシ」
「ちゃんと包帯まいとけよ。寝具が血まみれになってもあんた替えねえだろ」
「なんだかトシは母ちゃんみたいになってきちゃってなあ」
オレが頼りないせいか、と頭を掻いた近藤に、土方もすこし笑う。
「そりゃあオレは、局長の女房役だからな」
「そうだな、ほんとにオレは、良い相棒に恵まれたよ」
近藤が土方の隣に立ち、のぞきこむようにして月を見上げた。
しばらくは二人とも穏やかに黙って空を見た。うすく昇る煙草の煙が、月の影をおぼろにする。
「なあトシ、総悟は、オレたちの前からいなくなっちまうんだろうか……」
煙草の最後の灰を落としたとき、ふと近藤が言った。
縁側から地面に落とした煙草は、夜露に湿った地面に触れて火を失う。
土方は近藤のその、独り言のような問いかけに答えられず口を噤んだ。
「護ってやれないことが、こんなに辛いんだなあ」
近藤はほとんど聞き取れないくらいにかすかに呟き、目を閉じた。
「オレはなあ、悔やんでも悔やみきれねえんだ。江戸になんか連れてこねえで、武蔵野の、あのきれいな空気んなかで育ってればヤツは、もしかしたら肺病なんかに罹らなかったんじゃねえかって思っちまって」
近藤は強く拳を握った。手の平に爪が食い込んで、また深い傷を作る。
血豆などでは、なかったのだ。
きっと近藤は誰もいない夜の道場で、ひとり静かに涙にくれていたのだ。爪が皮膚を突き破るくらいに強く、手を握りしめて。
「あんたが付いてくんなって言ったって、無駄だったろうよ」
慰めるつもりもなく土方は、それだけ言った。
近藤を慕い江戸に来るのも、それからの生き方も、いつも最後は沖田自身が決めたことだ。
近藤も土方も沖田も、自分で選び取った道を歩いてきた。だから後悔などないと胸を、張れる。ついこの間までそうだったのだ。沖田の病が発覚するまで。それまでは。
「なんで、なんで総悟なんだろうな。あいつはまだまだ若くて、なあ、なのにオレはあいつに人を殺させて、まともな生活なんて全然させてやらなかったけど、あいつは、あんなに良いヤツなのに」
「そうだな」
「どうしたら、いいんだろうな。どうも、できないんだろうな」
「そうだな」
近藤はそう言って、けれど泣かなかった。
「……トシも、つらいよなあ」
近藤の手が、土方の手に重ねられた。熱い手の平には血が滲んでいたけれど、昔からなじんだ感触に土方はふと気が緩むのを感じた。
「……ああ、そうだな」
「うん。うん」
近藤は頷いて、土方の髪をなでた。慰めるような仕草を訝っていると、頬がなぜか熱く冷たいのに気が付いた。泣いているのに気が付いた。
「……こんどうさん…」
言いかけた言葉を押しとどめるように、頭を抱きかかえられた。
「なあ。みんな、こんな良いヤツなのに、なんでだろうなあ」
「…こん、どさ……」
あ、と口を開けると、音のない嗚咽が漏れた。
なぜ泣いてしまうのかわからない。悲しい、という感情は追いついてこないのに、涙ばかりが先走って流れていた。
「…そ、ご、」
沖田の名前を呼ぶと、それに応えない彼の顔がよみがえって、切なかった。
切ないと感じて泣いている自分が情けなかった。
自分はもっと強かでありたかった。沖田の死にも動じない、鬼でありたかった。そうなのだと思っていたから、余計に今、情けなかった。切なかった。
自分たちはもっと強かだと思っていた。
こんなにか弱い、一個の人間だと信じたくはなかった。
世界中にうろうろと漂っている人間たちの、その何千何万何億の、そのなかの一人でしかないのだと、信じたくはなかった。
「……近藤さんオレは、こんな弱さを受け入れたくねえよ…」
どこからかやり直したら、こんな現実には行き着かなかったのだろうかと、過去を否定するようなことも考えたくはない。
それでも、間違いを探してしまうのだ。
間違いを見つけられれば、正せる気がして。
もうどうにもならない現実を。
せめてこの現実を歪めることができないのなら、たかが隊士一人を失ったくらいで潰れない強さが欲しかった。現実が歪まないなら、自分を歪めてしまいたかった。
「そうだな……」
何も救わない近藤のただひとつの肯定の言葉が、土方を歪めず現実に引き留める。
そうだ自分には近藤という護るべき人がまだいるのだと思い知らされる。
それでもその想いはいつものように胸の痛みを和らげてはくれず、彼を共に護ってきた沖田が隣にいないことの絶望が深まっていくだけだった。
正しく、弱く、悲しむことしかできず、春の夜はしらみはじめる。
5.
この世のものとも思われないほど、沖田の肌は白く凍っていた。
彼は境界をとっくに越えている。こちら側にはきっと、戻ってこられない。
「もう来るな、って、言いやしたよね?」
「…言われたな」
「なんで来たんですかィ」
「気付いたら来てた」
部屋の敷居を踏み越える直前に留まって、沖田を見る。
沖田は布団に横になって、土方を睨み上げていた。
「……そこからこっちには絶対、来ないでくだせえよ」
「……わかってる。わかってる」
「返事は一回で充分でさ」
青白いやつれた顔のなかで、目ばかりがまだ爛々と強い。
できるなら近寄ってその白い頬に、かわいた唇に触れてみたかった。いつも沖田から歩み寄って与えてくれた愛情を、今度は自分が形にしたかった。
けれどもそれはすでに、二人の間では許されない残酷な愛情表現なのだ。
きっと会いに来たのだって間違いだった。
「…来て、悪かったな。すこししたら帰るから、おまえは寝てろ」
沖田はしばらく黙って土方を見上げて、それからゆっくりまぶたを伏せた。
「あんた、痩せましたね」
おまえほどじゃないさ。
言われればここ最近、あまり食事をとっていない。だからといって栄養失調になるのをみすみす見逃されるほど副長職の管理は甘くはない。体重の増減も大したキロ数ではないはずだ。
「オレがいないと、すぐあんたは飯食うのも忘れるんだから」
「…おまえがいつオレの食事の世話をした」
「手塩にかけたビーフストロガノフを毎日用意してやってたってのに忘れたんですかィ。薄情なお人でィ」
「本当に毎日ビーフストロガノフだったなら、それはそれでひどい嫌がらせだな」
「三食ですぜ」
「ひどい嫌がらせだな」
ええ、と沖田は笑った。
「それに毎日、すこしずつ、毒を入れてたんでさ」
悪戯っぽく沖田は笑う。
「そうしておけばよかったって、思うんでさ。あんたは気付いたかな。気付いて、それでも、食べたかな」
「…どうだろうな」
「土方さん、これ、毒でさァ」
沖田が口から、あ、と舌を差しだして言った。
唾液が舌のさきで光る。
「毎日すこしずつ、そういう風にあんたを追い詰めて、あんたをオレのものにしちまいたかったんだけどなァ」
沖田は舌を引っ込めて、口のなかでもごりと動かした。
「悪趣味だな」
「サディストですから」
「悪趣味だ」
「だから、こんなふうに病気なんかでころっと、あんたの関心を一切合切奪っちまうのなんて、つまらなくっていけねえや」
伏せたまぶたが開いて、沖田は目を開けたが土方の方は見なかった。ただ漠と天井を見上げる。
「毎日すこしずつ、で、間に合うと思ってたんですけどねィ」
その感情の見えない横顔に、言葉に、間に合ったよ、と土方は思う。
(間に合ったよ)
(おまえは充分、オレのすべてだ)
けれど舌は口のなかで張り付いたように動かず、何かの呪いのように声は出なかった。
「あんたは今、誰のものでもねえんでさ。ねえ自由に、生きてくだせえよ」
「…縁起でもねえ…」
「あんたがオレ以外の誰かとSMプレイしてても、視姦するくれえで、我慢しやすから。あんたがどんなふうに生きてもあんたの自由でさァ」
「…おまえがいねえと、飯も満足に食えねえって、知ってるだろ」
「あんたが一人じゃ生きてけねえ寂しがりだってこた知ってまさ。だから、一人で生きてかねえでくだせえ」
「……おまえ以外に、誰がいるんだ」
「中年の婚活相談にのってるほど、オレも暇じゃねえんで、そこはあんたの第六感を信じやす」
沖田のすべてを許す言葉が辛い。
「あんたもオレと姉上で思い知ったと思いやすけど、美人薄命はどうやら本当らしいんで、オレ的にはブサイクをおすすめしやすけどねィ」
心臓がつかまれたように痛い。総悟。名前を呼ぶと、はい、と沖田が応えた。
「…たとえ、おまえが言うようにオレが寂しがりでも、」
「はい」
「オレはもう、おまえ以外なんて、いらねえよ……」
ミツバでも、近藤でも、自分自身でもなく、今護りたいのは触れたいのはたった一人、目の前の沖田ただ一人なのに、この距離は遠く、遠く、遠い。
「…あー…今、ちょっと勃ちやした」
「このタイミングで勃起してんじゃねえよ…」
「青少年たぶらかすようなこと言う土方さんが悪いんでさ。ああ、身体に悪ィや。まったく」
沖田はまぶたを小指で掻いて、笑った。
「あーあ、なんか、気が抜けちまった……ちょっと、オレ、寝まさァ。寝ても、部屋入ったら殺しますぜ」
「わかってるよ」
「じゃ、…――、」
沖田が何か言いかけて、言葉は聞こえずにただ細い血の筋が口の端を伝った。
咳もなく、音もなく、やけにゆっくりと血は糸のように顎を伝い喉に落ち布団にしみる。
最後まで手も、肌も、触れあわず、土方は沖田のまぶたがゆっくりと落ちていくのを見守った。
それはただ、眠りについただけなのかもしれなかった。
「そうご」
総悟。
呼んだ声にこたえるように、ひゅう、と、風が吹いた。
花を散らすばかりだった風にのって、ようやく芽吹いた緑の匂いがした。
「……総悟もうすぐ、夏が来る」
もうすぐそこまで、春の終わりは、近づいている。