ここにしかない今日といういちにち



 のどが痛いと思ったのが一週間前、声がかすれはじめたのが三日前、声が出なくなったのが二時間前で、あ、と口を開いて口腔内をのぞかれているのがいまこの瞬間だ。

「あーすげえ腫れてるのが見える。これ、病院行ったほうがいいんじゃねーの」

 口のなかを照らしていたほそいペンライトをぱちんと消して、銀時は言った。
 土方はそれに首をふって、壁のカレンダーの日付を指さす。

「そか。今日祝日か」

 こくんとうなずいて応えてから、痛み止めを飲んだコップにのこった水でのどを湿らせる。
 そうすると痛みは和らいで、声をすこしだけ取り戻した。

「熱とか、そういうのはねえの?気分悪いとか」
「のど、い゛たいだけ」
「あー…、むりにしゃべんなって。あんまりひどいんなら、祝日営業してる病院さがすけど」
「いい。だいじょうぶ」

 すりきれるような熱をもったこの痛みには憶えがあった。
 煙草を一日カートン単位で消費する土方はこの炎症を何ヶ月かに一回の頻度でくりかえす。
 経験則からこれは一日乗り切ればそれなりにおさまって、二日後にはけろりと治るのだということを知っていた。
 ただしその間は束の間の禁煙生活をしなければ、治りがずるずると長引くのだということも知っていたから、これからの二日間を考えて気分が落ちた。
 もうすでに口寂しい。

(あー、のどいてえ…血のあじがする…)

 んん、とかるく痰をはらうためにせきばらいをすると、それだけでぴりっとした痛みが走った。
 つばを嚥下するために舌が上あごにふれるだけでも、痛い。
 なにをしてもついてまわる執拗な痛みは神経を逆なでして気分を苛つかせる。

「…ん」

 水分不足は症状を悪化させるから、コップに水をつぎ足そうと腰をうかす。と、立ち上がりかけた土方の腕をつかんで銀時がソファに座らせた。

「とってくっから。座っとけよ」
「…お、ん」

 万事屋のかたいソファに土方をしっかり据え付けた銀時は、土方がもう立ち上がろうとしないのを確かめてからコップを持って台所へ向かう。
 その過保護ぶりに多少あきれながら、たしかに今日はそういう日なのかもしれないとも思う。

(誕生日だもんな)

 土方は、銀時が今日の予定を決めていたかどうかとか、どこかへ行くつもりだったのかとか、そんなことは知らない。
 だけどもわざわざ午後から明日いっぱいのたっぷりした休みをなかばむりやりとらされたことといい、無計画ではおそらくなかったのだろう。

(タイミングわりいの…)

 ソファに頭をもたせかけて、目をつむる。

(べつにオレは、いい年だし、誕生日をどう過ごそうがなんでもいいんだけどよ)

 記念日にかわいらしいパーティを開いたりディナーを予約したりという甲斐性が銀時にあるのかは置いておいたとしても、こんな調子ではセックスもできないし、じゃあ銀時と自分のあいだから肉体関係を除いたらあとにどんなつながりが残るのかと考えると、たぶんなにもないだろうと、そういう結論にしかたどり着けない。
 べつに記念日になにを祝ってくれなくてもいいのだけれど、銀時を手放すのはまだ惜しいと思う。
 好きだ嫌いだという一線はお互いにもう越えている。
 そうなったらあとは必要か必要でないかという存在価値の問題しか残らないのじゃないかと、土方は思う。

(いい性欲処理だし、それなりにセックスはうまいし、やさしいし、料理もうまい)

 閉じたまぶたにあわせるように、思考はゆっくりともやをかけるようにまどろむ。

(女よりずっと楽だし、丈夫だし、放っておいてもいいし、仕事に口をはさまないし、公私混同をしないし、無理をいわない)

 のどの痛みも、身体の疲労も、ある一点でふっつりと消える。
 感覚は遠のき、意識はあるけれど、もうほとんど眠っているのに近い状態におちいる。

(でも心配をかけるし、意外と女にモテるし、自分のことは話さないし、人を助けようとして自分が死にかけるし、オレにまだ)

 まだ、そう、まだ。
 言われたことが、ない。

(なんて?)

 カラン、と氷がゆれる音で、水のなかから引き上げられたように急に意識が浮上した。

「あ、おこした?」
「いや、…っ、ほっ、げほっ」

 とつぜん姿勢を変えたために唾液が気管にはいってしまったようで、むせこむ。
 はげしい発作におそわれるのにのどの痛みで咳も満足にできず、結果さらに咳が長引いた。
 咳をするあいだは呼吸もうまくできないから息が苦しくて、目尻に知らず涙がたまった。

「え、えほっ、ごほ」
「うん、苦しいな、がんばれ」

 銀時の手が骨にそうように背中をなでた。
 そのゆったりした動作に乱れた呼吸がすこしずつ正しいリズムを取り戻していく。

「けほ、えほ」

 はあ、と息を吐くと、それでようやく発作が一旦おさまる。
 のどの炎症が悪化したことをありありと感じて苦く思う。上あごを舌でなぞると、ざらざらに荒れて血の味がにじんでいた。

「ほら、ポカリな、のんどけ」

 手渡されたコップにつがれたうっすら白っぽい水に口をつけると、ほんのりあまく、かすかにすっぱい。
 ちいさい頃にこんな清涼飲料水があったわけもなく、またそれが田舎の実家で出されたわけもないのに、それはなつかしい味をしている。

「…よく、ポカリなんか、常備してんな、貧乏人のくせに」

 水気を吸っていくぶんなめらかに話すことができる。
 ゆっくり飲めよ、とまるで母親のような顔をした銀時は、そう土方に言われても怒る素振りもない。

「安い粉のな。神楽なんか、たいがい丈夫だけどあれでまだガキだから時々熱だすんだよ」

 もっと飲むならもう一杯分つくってこようかと聞く銀時に、いや、と首をふる。

「い゛らね゛え…」
「のど痛むんなら、んなしゃべんなくっていいって」
「あ゛あ」

 うなずいてから銀時は空になったコップを片付けるために台所へもどってしまう。
 どうせ行ってしまうならもう一杯もってくるように頼めばよかったと、すこし後悔をした。
 棘のついた石がのどに詰まっているような息苦しさは、炎症のせいでもあったし、話せないことへの不満でもある。
 苛立ちと不安をことばにして説明したいが、その苛立ちと不安はことばにできないからこそわきあがるものなのだから手に負えない。
 鬱憤を晴らすために煙草を吸うことさえできないのだから、感情の波打ちをおさえる方法が土方にはなかった。

(のどが痛いときは、首にネギまいて、しょうが湯を飲んで、あとは)

 はやくこのもどかしい不快感から解放されたい。
 口内に残ったあまみが、水分を無くすたびにのどにからんだ。

「やっぱり、病院さがすか?ちょっと顔赤いし、熱、出てきたんじゃねえの?」

 ソファのとなりに銀時が座った。
 重みで全体にすこし沈んだソファに、よりかかりながら土方は首をふる。

「これ゛、ときどきあるこったから、心配ね゛え゛よ…」
「余計に心配するっつうの。毎日毎日あんだけ煙草吸ってりゃあのども荒れるだろうけどね」

 うん、とうなずくと、銀時もうん、とおなじようにうなずいた。
 すぐとなりのちょうどいい高さに銀時の肩があるから、土方は体調の悪さにあまえてその肩に頭をのせた。

「なあにーどした」
「べつに、い゛つもどおりだ」

 肩からたちのぼるのは乾いた洗濯物のにおいとひとのはだのにおいと自分の煙草のにおいもすこし交ざっているようだ。
 安心するにおいとして銀時のそれを頭と身体がおぼえているという事実は、どれだけの価値をもつのだろうか。
 すくなくとも今、この瞬間にその事実はたいせつな意味をもっている。
 ぐらぐらと落ち着かなかった苛立ちの連鎖を、断ち切れる。

「いつもどおりかあ…」

 銀時が、土方の頭に腕をまわしてなでる。

「のど痛かったら返事しなくていいから、ちょっと聞いといて」

 ことばのやわらかさに反して、土方はそう前置きをされて怖じ気づく。
 もしかしたらもたらされる突然のおわりは、今日のこの瞬間にあるかもしれない。
 痛みにそなえて身構えたいし受け身をとりたい。
 できるならばいっそ自分から終わりにしたいのに、声はのどのおくで縮こまったまま、出てくるようすはなかった。

「まずおまえはね、料理ができない、ワーカーホリック、怒りっぽい、ひとの話を聞かない、けっこう適当、空回り」

 銀時は一息に言う。
 肩に頭をのせたまま、土方は消えそうな息をはく。

「時々臆病で、へんなとこ悩むし」

 あつかいにくいんだよな、と銀時がつぶやく。それでもまわされたままの腕の感触がほおに伝わる。

「ちょっとバカなとこもあるし」
「バカではねえ゛よ」
「…そういうところがさあ、おまえのいいとこ、だって」

 銀時はちょっと照れくさそうにことばを切ると、腕を土方から離した。
 その手で頭を掻いて、まあさ、と言いよどむ。

「とりあえずさあ、おまえが銀さんのことだいすきなことくらい知ってるから」

 頭上で、銀時が咳払いをする音が聞こえた。
 そういう咳をするとのどが荒れるぞ、と土方は思う。

「だからまあ、土方が銀さんを必要としてるあいだくらいは、一緒に、うん、柏餅とかたべような」

 じつは今日も買ってあるんだよと銀時は言う。

「土方くんがいるだけでそれなりに毎日、たのしいからさ」

 銀時はそこまで言ってから、両手で顔をかくしてきゃー言っちゃったとかわいくもない照れ方をした。
 その気味の悪い仕草に免じて、べつにすきでもないとか、おまえなんかただの電動バイブ代わりだとかそういう憎たらしいことは言わないでおく。
 すん、と土方が鼻をすすってから銀時を見上げると、目をそらした銀時があさっての方を向きながら口笛を吹いた。

「ま、なにその、おたんじょうびとかあ?おめでとうっていうかあ?」
「…ふ、」
「あ、てめ笑ったなシャイなハートを傷つけやがってパフェ食わせろこのやろーはやくのど良くなれこのやろー」

 土方はなにか返事をしようとして、口を開きかけて、そのまま何も言わずに口を噤んだ。
 のどが痛いからだと、そういうことにしておこう。

(誕生日祝うまでに、なにもこんな回り道しなくったって、なあ)

 そう口には出さず思うけれど、それは自分だって同じことだったからやっぱり声には出さないで思うだけだ。

「…ぎんとき」
「うん?いっとくけどいま茶化したらほんとにもう犯すからね」

 ありがとうは、やっぱりのどが痛いから言えなかった。




おわり
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