02
「天女様には、少し試してもらいたいことがあるんだ」

竹谷少年は、振り返って穏やかな声を出した。
しかし、名前の姿を見た途端、不思議そうに眉を寄せる。

「天女様、ウサギはどうした?」
「え?どうしたって……あれ」

問われた意味がすぐには分からず、困惑することしばし。
名前は、ついさっきまで抱きかかえていたウサギの姿が無いことに、ようやく気が付いたのである。

「いない!どうして!いつの間に!」

消えたのは、お椀くらいの大きさの白ウサギだった。
ふかふかの毛皮は、五指が沈み込むほどボリュームがあって、柔らかいのにしっとりすべすべ滑らかな触り心地。毛の一本一本がつややかに光り、健康そのものな美相である。大概、健康状態が良い動物は見目が良いのだ。その代表みたいに綺麗なウサギだった。名前はオロオロする。

「全然気付かなかった!どうしよう、どこにもいない!」
「まぁ落ち着け天女様」

竹谷少年に泣きつくが、彼は然程焦った素振りも見せず、大らかな足取りでとある小屋に向かった。それがウサギ小屋だと分かったのは、扉の中にふわふわの塊が群れていたから。毛足の長い絨毯のような光景だ。

「あ、やっぱり。ここにいたな、雪丸」

ウサギの群れを一瞥するなり、竹谷少年はパッと表情を明るくした。
それから、ほんの数秒足らずで、並み居るモフモフ達の中から一匹のウサギを摘み上げる。
大人しく首筋を掴まれたウサギは、ぬいぐるみのようにじっとしていた。だけど、時々思い出したように足を動かし、ジタバタ空中を蹴って見せるのが可笑しい。
UFOキャッチャーの要領で、ウサギは名前の腕の中に着地した。
ーーそれは確かに、さっき居なくなった白ウサギだったのだ。

「雪丸って言うんだ、君。いつの間に戻ったんでしょうね。扉も自分で開けたのかな。賢い……」

受け取ったウサギを持ち上げ、赤い目と視線を合わせる。
何となく話しかけてみれば、まるでこちらの言葉を理解するかのように、コテンと小首を傾げられた。……一応、名前の声は届いているのだろう。音に反応して、長い耳がピクピクと動いているので。
ふっくらした体とは違い、短い被毛に覆われたウサ耳は、絹みたいにつるりとした触感だ。耳がパタつく度、手の甲がくすぐられる。可愛い。

「ーー天女様、ソイツは自力で戻っちゃいないぜ」

無心で毛玉と戯れていると、竹谷少年が不意に声を発した。
驚いて、その横顔を見上げる。
彼は俯きがちに、じっと何かを考え込んでいる様子だった。

「雪丸が脱走したのは、餌やりの時間だ。当番が戸を開けて小屋の中を掃除している間、ウサギ達に餌をやる。……その一瞬の隙に、開けた扉から逃げ出したんだ」

ここに足跡があるだろ、と言われて、地面に視線を落とす。
確かに小動物特有の、小さな足跡が残っていた。探偵のようだ。

「でも、ここに残った足跡は“往路”の分だけだ。小屋に戻った跡がない。つまり、雪丸は復路を辿っていない。……なあ、天女様」

一度言葉を断ち切り、竹谷少年はようやく名前の目を見た。

「これも、天女様の異能なんだろ?」

***

名前は驚いて、雪丸を抱く手に力を込めてしまった。
その途端、ピャッとウサ耳が起立し、抗議するように後ろ足でタシタシされる。慌てて力を抜けば「もう勘弁してくれよな」とでも言いたげな目で見上げられた。機嫌を取るため、名前は野菜の切れ端を献上した。

「い、異能って……天女は、何もしてないです」
「天女様はまだ力を使いこなせてないみたいだから、自覚がないだけじゃないのか?さっき豆腐を大豆にした時だって、自分じゃ分かってなかったろ?」
「それは……」

その通りである。
名前は逃げるように、もっふりしたウサギの後頭部に顔を押し付けた。
殆ど無臭にも等しい匂いの向こう側に、芳しい藁の香りが潜んでいる。
雪丸は、少々鬱陶しげに鼻をひくつかせたが、逃げようとはしない。

「俺は最初、天女様の異能が“時を戻す力”なんじゃないかと思った。豆腐が大豆になったのは分かりやすい例として……天女様の怪我が治ったのも、怪我をする前の状態に腕が戻ったとも取れるだろ?」
「そうですね」

名前は渋々頷いた。

「だから今回のも、雪丸が“脱走する前の状態に戻った”とも考えられるわけだが」
「違うって言うの?」

竹谷少年は、古傷の目立つ指で雪丸の額をちょいちょい撫でる。

「雪丸は賢いウサギなんだ。人の顔と匂いを覚える。人間の好き嫌いも激しい。さっき雪丸を天女様に渡した時、雪丸は明らかに天女様を知っている様子だった。……これってさ、雪丸だけが過去に戻されたんだとしたら、矛盾してることになるよな?脱走する前の雪丸は、天女様を知っているはずがない。あんたの記憶がある時点で、それはもう過去の雪丸じゃないんだ」
「あ、あー……まぁ、そうなりますけど……。でも、天女の異能だし、体だけ過去に戻されても不思議じゃないような」
「それはそうだ!だから、これはあくまで仮説な。一つの説として、俺は天女様の力が、単に“物事を過去に戻す”だけじゃないっていう案を提唱したかったんだ」

名前は悩みながら、雪丸の毛並みを撫でた。そうしたら「そこじゃない!こっちだ!」と言う具合に、ウサギが激しく身を捩り、名前の指先を別の所に誘導し始めた。この短期間で、随分と舐めた態度を取るようになったものである。まさか、天女がウサギに手懐けられるとは。

「なるほど。……まぁ、まだ何も分からないですからね。色んな可能性を見ておくのは大事だよね」
「うんうん。天女様は話が早くて助かる」

名前の答えに満足したのか、竹谷少年は次に、他の小屋へと名前を導いた。この辺は、似たような小屋が数軒並び立っているのだ。

「それで、天女様に試してみてもらいたいことっていうのが、コイツのことなんだがーー」

そう言いながら竹谷少年が示したのは、小屋の床に置かれた木箱。
大きめのお弁当くらいのサイズの箱だが、蓋を開ける前から小さくカタカタと揺れているのが……何とも……こう……そう言う感じである。

いつの間にか、腕の中から名前の肩の上に移動していた雪丸も、おっかなびっくり箱の中を覗き込んでいる。
しかしこのウサギ、箱が動く度に大袈裟なほど飛び上がり、名前の頭の後ろに身を隠すのだ。……で、ある程度ほとぼりが覚めた頃に、またノコノコと戻って来る、という無意味な動作を延々と繰り返していた。

「よし、開けるぞ〜」

雪丸の葛藤をよそに、竹谷少年は呆気なくパンドラの箱を開けた。
雪丸は、驚きのあまり名前の肩から落下した。

「……あ、ジュンコだ」

大した感動も過度な演出もなく、さらりと開いた木箱ーー。
そこから現れたのは、いつぞや名前を噛んだ赤いマムシだった。
相変わらずの派手な体色と、立派な斑点模様である。
でも、どことなく元気がない。
よく見ると、尾(どこからが尾で、どこまでが胴体なのかは謎だが)の先っぽに、白い包帯がグルグルと巻かれていた。

「あ!もしかしてこの怪我って、」
「うん。天女様が踏み潰した時の怪我だぞ。そのあと天女様はジュンコに噛まれてるもんなぁ。勝負の結果は相討ちってところか」
「勝負はしてませんけども」

竹谷少年は「冗談だって」と笑い、ジュンコの頭を優しくつついた。
蛇の本能なのか、俄かに鎌首をもたげたジュンコは、切れ込みの入った細い舌で、差し出された指をチロチロ舐める。
名前の目には、“獲物の味見をする捕食者と被捕食者の図”にしか見えないけど、当の竹谷少年は挨拶のつもりらしく、終始楽しげであった。

「可愛いだろ?蛇って意外と表情豊かなんだ」
「そ、そうですか!?表情!?」
「うん。ほら、よく見てみろ」

誘われるがまま、名前も恐る恐る蛇の小顔を見下ろした。
目を引くのは、高級感の漂う光沢を放つ鱗と、際立って丸い両眼だ。
じっと睨み合えば、まぁ確かに何となく、表情らしきものがあるような、ないような、やっぱりあるような、いやでもなぁ……と言う具合。

「う、うーん……?」

シュルシュルと吐息のような音を吐き出し、ジュンコは沈んだ表情(?)でとぐろを巻く。
一方、大人しい蛇相手に勝機を感じたのか、地面に落ちたきり暫しひっくり返っていた雪丸は、ピョンと起き上がるなり木箱に寄って行って、後ろ足をダンダン踏み鳴らすなどしていた。威嚇のつもりらしい。

「怪我自体は大したことないんだが、噛まれた天女様が目の前で倒れただろ?ジュンコも責任を感じたみたいで、あれからずっと落ち込んでるんだ。飼い主の孫兵のことも避けてるみたいでさ。天女様の力で、何とか出来ないかと」
「え!?それが薬になんの関係が!?」
「いやいや、異能の内容を探ることは大事だろ!うまく使いこなせるようになれば、薬の研究にも役立つし。まずは練習ってとこだな」

名前は、むむむと唸った。
いいように丸め込まれているだけなような気もするが、ジュンコに怪我を負わせたのは名前だし、喧嘩両成敗とはいえ罪悪感も多少はある。
何より、爬虫類のジュンコが己が犯した罪の意識に苛まれているのに、哺乳類……しかも、その最先端をゆくホモ・サピエンス・サピエンスの名前が、あっけらかんとしているわけにもいかずーー

「よ、よし。何とかやってやろう……!」

安い!チョロい!面白い!あと可愛い!が謳い文句のお手軽天女な名前は、手巻き寿司より簡単に丸め込まれた。

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