02
噛まれたのは右腕。肘の少し手前部分だった。
皮膚を突き破る牙の鋭利な感覚が、生々しく全身を貫く。
冷や水を浴びせられたように、一瞬にして体が冷たくなった。
焼けるような痛み。激しい動悸。
額から、玉のような脂汗が滲み出る。
激痛とショックで直ちに昏倒した名前は、その後半日寝込んだ。

***

次に目が覚めた時、名前は保健室に寝かされていた。
もはや慣れた景色である。
包帯でぐるぐる巻にされた右腕は、今もうっすら熱を孕んでいた。

「ま、またか〜……」

トホホ、と溜め息を吐く。最近こんなんばっか。
傷が癒えたと思ったら、また次の怪我が待っている。
名前はこの先、一生包帯から離れられぬ運命なのかもしれない。

「……ん?」

その時、微かな物音がした。
呑気に気絶している間に、時刻はすっかり真夜中だ。
忍者の学校なので一部例外はあるものの、誰もが寝静まる丑三つ時。
見張りもいない保健室の周りは、水を打ったように静まり返っている。
だから、その研ぎ澄まされた静謐さの中で、“音”はやけに目立った。

「だ、だれ?誰かいーーングッ!?!?」

確か、物音は廊下の方から聞こえたはずだった。
聴力検査は毎年問題なくクリアしていたので、その辺は抜かりない。
だから名前は、怖さ半分好奇心半分、肩に羽織を引っ掛けて、そっと廊下を覗こうとしたのだ。
その瞬間……背後から、何者かに口を塞がれたわけである。

「ンンンンン!ン〜〜〜〜!!?!?!?」

こ、殺される〜!と思って、名前は必死にもがいた。
未だ、咬傷による発熱が引かぬため、暴れるほどに頭がグラグラする。
背後の犯人に殺害されるのが先か、名前の無茶により自滅的自殺に追い込まれるのが先か……どうせ死ぬなら後者の方が幾分マシか?などと思いはじめた矢先。不意に、めっぽう焦った声で名前を呼ばれた。

「ま、待て!頼むから落ち着け!私だ!」
「ンン〜!?」

その声を聞いた途端、名前はピタリと暴れるのをやめた。
安心したのか、拘束する腕の力が緩む。
その隙を見逃さず、名前はギュルンッ!と背後を振り返った。

「山田利吉!!!!」
「だから声が大きい……!」

再び口を塞がれるも、今度はそれほど力が篭っていない。名前が「分かったのだ!」と目で語りかければ、轡はすぐにでも外された。

「手荒な真似をしてすまない。人が来るとマズイと思って、つい手が出た」
「本気で死ぬかと思って焦りましたが……それにしても結構久しぶりですね。今まで何してたの?元気だった?天女に何か用?」
「あ、ああ……」

山田利吉は、どことなくヨロッとした足取りで一歩離れた。
疲れているのだろうか。そういえば、着ているのは黒一色の忍者装備。殺伐とした任務帰りだとしたら、その疲労感にも納得できよう。

「疲れてるなら座ったら良いんじゃないですか?見ての通り天女は入院中なので、全然何も出せないけど」
「……分かった」
「え?あ、うん、はい」

何だろう、さっきからやたら目が合う……。
いや、目が合うと言うか、山田利吉が名前から片時も目を逸らさぬので、顔を上げるたび否応なく視線が交差するのだ。
あと、何となく……本当に何となく。これはもう直感としか言いようが無いけど、山田利吉が、何かに感動している気配がする。効果音にすると、ジーンって感じ……。しみじみと、何かに感じ入っているような。

「えっと……で、何」

山田利吉にしては慎み深く、奴は部屋の角に正座した。
何も、この辺で一番暗い所に座らずとも。服が黒いせいで存在感ゼロ。
せめて燭台に火を灯そうとしたところ、掬い上げるように片手を奪われた。「その手では危ない。私がつけよう」……そういうことらしい。

「君、怪我の具合はどうだ」

ようやく口を開いた山田利吉は、やや落ち着きを取り戻していた。
蝋燭のお陰で、部屋全体もやんわりと明るくなる。
炎のゆらめきは、いわゆる“1/fゆらぎ”と呼ばれる癒しの周波数を帯びているらしい。ゆえにリラックス効果があるとされ、それが山田利吉の精神安定に役立ったのかもしれない。
……まぁ、あの山田利吉相手に“落ち着き”って表現も大概おかしいが、確かに先程までの奴は、何かに激しく動揺している風情だったのだ。

「ジュンコに噛まれた傷なら、まだ負いたてホヤホヤなので全く癒えてないです。痛み止めが効いてるので、今はそんなに痛くないけど。ただ、微熱が続いてますね。体感37度くらい。山賊に殴られた怪我は結構マシになりました。その前に自滅した時の怪我は、善法寺氏の治療の甲斐あって完治済みです。というわけで、進捗状況は三分の一ですね」

スラスラと語れば、山田利吉は目を細めた。
眩しいものを見た時みたいに、ほとんど無意識の挙動に思われた。
そ、それは一体どういう感情……?

「前にも感じたが、君は、良く話すようになった」

名前が困惑する間に、山田利吉はまたしても謎の発言を残す。
文脈が読めず黙する名前を見て、彼は複雑な表情を浮かべた。
ーー笑っているようにも、困っているようにも、何だか少し悲しげにも見える、今まで出会ったことのない感情だった。

「君はオーマガトキにいた頃、ほとんど自分の事情を語らなかった。聞いても誤魔化されるばかりで、私は君が体調を崩した時でさえ、限界を迎えて倒れるまで気付けなかった。君はずっと、そういう人だった」

それは恐らく、大別すると“苦笑”に分類される表情だと思う。
でも、そこにはもっと言語化しにくい、煩雑な情緒が隠されていた。
喜びも、悲しみも、怒りも、戸惑いも……その全てが少しずつ溶け出した、でも、それらのいずれにも該当しない、名付けられない思い。

「城にいた時、決して人の名前を覚えなかった君が、忍術学園に来てからは変わった。相変わらず不器用に見えるが、少しずつ人間関係を築いて、こうして自分のことを語れるまでになった。……私はずっと、いつか君が変わってくれることを、心の底から願っていたんだ」
「や、山田利吉…………」

願っていたと語るくせに、無理して微笑んで見せるくせに、その言葉には、誤魔化しようない切なさが潜んでいた。
名前は意味もなく泣きたくなって、唇を噛む。
悲しいことなんて何一つ言われていないのに、やるせなくて、もどかしくて、今にも死んでしまいそうだった。
目に見えない感情の波に胸を打たれ、淡い息苦しさを覚える程に。

「ーー名前、」

不意に、名を呼ばれた。
……他ならぬ、自分の名だ。
それは、この世に生まれ落ちてから今日に至るまで、飽きるほど聴き慣れた言葉のはずだった。
それなのに、どうしてだろう。
まるで、初めて耳にする言葉のようだった。
自分の名が、こんなにも美しい響きを持つなんて知らなかった。
まるで、この世で最も尊い宝物に付けられた名であるかのように。

「名前」

もう一度、呼ばれた。
その瞬間ーー名前は、全身の血液が沸騰する幻覚を見た。

カーッと顔に血が上り、体中に火がついたように熱くなる。
涙の幕が降りてきて、視界がまぼろしみたいに歪む。
いっそ幻想であれば良い。そう願うほどに、世界から現実味が薄れる。

本当に、本当にどうしてしまったのだろう。
名前を呼ばれただけなのに。たった、それだけのことなのに。
どういうわけか、勘違いしてしまった。
ーー“好きだ”と、言われた気がした。
惜しみない愛情を、ただ一途に注がれている気がするなんて!

「な……なん、で」

血の巡る音が、はっきりと聞こえる。
名前は、燃えるように熱い耳を押さえて、うずくまるように項垂れた。
……この先を、聞きたくなかった。
山田利吉が言わんとする言葉を、どうしても受け入れたくなかった。
最後の瞬間まで、生温い勘違いのままで終わらせたかった。
だけど、現実は非情だ。
名前の抵抗を嘲笑うかのように、山田利吉は残酷な決断を迫った。

「今の君なら、きっとこちらの世界でも生きていける。変わり始めている君なら……。名前、私は今日、君を攫いに来た。私と共に逃げて欲しい。君は今、天女でも何でもない、只人なんだ。そして、これからも人であれる。名前、どうか私と……名前として、私と生きてくれないか」

大きく見開いた目から、止めどもなく涙が溢れた。
身を切られるような悲しみに、胸が潰れそうになった。

山田利吉は、なんて酷い奴だ!名前は、心の中で慟哭する。
分かっているくせに!名前の答えなんて、最初から全部知っているくせに!どうしてこんなに酷いことが言えるんだ!
選ばせるようなことをーー名前自らに、切り捨てさせようと言うのか!

「できない!」

名前は、涙に濡れた声で喚いた。

「そんなこと、出来ない!絶対に出来るわけない!私に、故郷が捨てられるわけない!家族を、友達を、沢山の思い出を、諦められるわけない!きっと死ぬまで忘れられない!山田利吉が一番よく知ってるじゃん!なのに、なんで、なんでこんな酷いことが言えるの……なんで!私は、私は……ッ」
「名前、」
「気安く呼ばないでよ!!」

名前は、またしても山田利吉に枕をぶん投げた。

「何で、言っちゃうの。口に出しちゃうの。知らないままなら、私、ちゃんと最後まで山田利吉と一緒にいられた。今まで通り、仲良くいられた……。なんで、自分から突き放されようとするの。酷いよ。バカだよ。もう救いようのないバカ!アホ!バカ!ドジ!バーカバーカ!」
「名前!」
「だから気安くーーッ」

名前の悲鳴は、即座に飲み込まれた。
息継ぎをする隙間もないくらい、深く深く口付けられてしまったから。

名前が目を見開く一方、山田利吉は懺悔するように瞑目していた。
体を掻き抱く腕は強く、それでいて壊れ物を扱うかのように優しい。
唇のやわさを通じて、途方もない悲しみが雪崩れ込んでくる。
目尻の涙をそっと拭われ、全身に震えが走った。
忘れていた切なさが再び込み上げて、胸の奥を締め付ける。
体中どこもかしこも熱いのに、頬を伝う涙だけは氷みたいに冷たい。
その冷気が、夢に溺れかける名前を現実に引き留めるーー。

「…………、」

名残惜しげに体を離した後、彼はもう今までの山田利吉ではなかった。

「ーー卑しき従者の身でありながら、尊き天女様に分不相応な慕情を抱いたこと、慎んでお詫び申し上げます」

主従として適切な距離を取り、山田利吉は深く平伏する。
一切の感傷を断ち切った、平坦な声色だった。

「どうか、私に罰を」
「……いいえ。貴方のこれまでの献身に免じ、罪を許します。今宵受けた恩を忘れず、これまでより一層、務めに励みなさい」

その夜、名前は天女としての異能を発現させた。

第4話[ 完 ]


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