幸せな夢を見ていた。
老け込んだ俺の隣で、イザヤが笑っていてくれる夢。
イザヤは今と変わらず、風呂に入ってばかりのきれい好きで、上達しない俺の飯をうまそうに食ってくれて、でも焼き魚は頭がついてると食べたくないって嫌がって、無防備に俺の隣で寝顔を晒したりして。
なんて幸せな未来なんだろう。
ああやってイザヤを一生守ってやるには、今みたいな、関係の崩壊を恐れている俺じゃあだめだ。
イザヤが俺を信頼して話してくれることを信じて、訊こう。
イザヤの外での生活のことを。
傷があるなら、二人で癒していけるのだから。
黒ねこのおきゃくさま(7)
「おはよう、イザヤ」
「んん、……おはよ」
リビングに入ると、どこかからかイザヤの返事が聞こえた。
イザヤはソファーに寝転がっていたようで、起きあがって寝ぼけ眼で俺の顔を見る。 「風邪は大丈夫か?」
俺は近づいていって、少し乱れた前髪を掻きあげ、掌をつるりとした額に押し当てた。
「――――少し熱いんじゃねぇか?」
「ん……、そうかな? 眠いけど、だるくはないよ」
「微熱かな……。今日こそ薬飲んで、ゆっくり休めよ」
温かい額から手を引くと、眼を閉じていたイザヤが俺を見上げる。
「シズちゃん」
「なんだ?」
「なんでもない」
言いながら、イザヤが俺に抱きついてくる。
直接的に甘えられることは滅多になく、ふやふやとふやけたようではっきりしないイザヤの様子は、やっぱり熱のせいかと背中に腕を回してさすってやると、僅かに湿っていた。上着はソファーの背凭れに掛けられている。
「背中、汗かいたんだな。冷やしちゃだめだ、拭いてやる」
こだわりがあるらしいイザヤが選んだ柔軟剤でふわふわのタオルを手に取り、まだぼんやりしているイザヤを微笑ましく思いながら、服を捲った。
こんな日常の一コマも、昨日イザヤの気持ちをしっかりと感じてからは、より幸せに感じられた。
なのに。
「――――あ、」
――――なんだ、これ?
手の動きが止まった。
イザヤの肌は白く綺麗で、毛が薄く、背中は色っぽさすら感じる形をしている。
そんな綺麗な肌に、肩甲骨のあたりに、今まで無かった、あってはいけないような、
――――赤い、噛み痕。
思考も呼吸も停止する。
昨日もやりと心に引っ掛かった何かが、その正体を表していく。
イザヤが外へ出掛けていった日、必ず早い時間から濡れていた風呂場のタイルの床、空いたままのベッドの左側――――。
俺はやっとの思いで、言葉を口にした。
「おまえ、背中に……、歯型が」
イザヤの肩がビクリと僅かに跳ね、途端、服の裾を強い力で掴むと、背中に触れる俺の手を拒絶するように引き下げた。力が篭ってますます白くなっている指先が、小さく震えている。
ただ、タオルを握って、イザヤの背中を見つめていた。
シンとした部屋の中に、呼吸音だけが、やたらと五月蝿い。
暫くしてイザヤは、ふっと鼻から、諦めにも似た笑いの混じった息を漏らした。
「……あれだけ言ったのに」
ずるがしこい。
今度は俺の肩がぎこちなく動いた。
イザヤの、見たことも聞いたこともない裏側から湧き出す、隠された柔らかい箇所を引っ掻いてあがる悲痛な悲鳴のようだ。
服を握り締めていた指が、するりと解けていく。真っ白のうなじだけが、やたらと眼に焼きついた。
「……今日はイザヤに大事な話をしようと思っていた」
尋ねなければならない。固まった俺の決意を静かに吐き出すと、イザヤが勢いよく振り向いた。
その眼はちょっと潤んでいて、瞳孔が開いた瞳がぶれるように震えている。イザヤの心の表れのような気がして、俺は跳ねあがる心拍数を感じながら眼を離すことができずにいた。
「はなし、って……?」
面食らった俺が何も言えずにいる間に、イザヤの顔がみるみる強張っていく。
「……俺、いらない?」
渇ききった声。
「……なに言って、」
「ごめんね、シズちゃん、ごめんね、俺、やっぱり駄目だったよね? やっぱり、俺みたいな化物じゃ、だめだったよね」
「イザヤ! そんなこと言ってねぇ」
虚ろに呟かれる言葉を遮るように大声を出すと、必死に訴えかけてくるイザヤが、俺に抱きついてきた。
ぽろり、ぽろりと、滲み出す涙が瞬きするたびに大粒のまま落ち、震えた腕が俺を放すまいと掴んだ。
「……ごめん、こんなこと言いたいわけじゃないのに……。だめなんだ、痛いのも、寂しいのも、今の俺には、つらくなってしまって、ほんとうに……情けない。ごめんね……」
さっきとは違い、痛く爪が食い込んでくる。
胸が、痛い。
食い込むイザヤの爪以上に、締めつけられる心臓が、痛い。
だが、イザヤはもっと長い間、鋭い痛みが胸を指すのを我慢して、何かにじっと耐えていたのだと、思い知らされてしまう。
縋りついてくるイザヤの必死さに、俺が呑気にイザヤとの生活を楽しんでいたうちに、イザヤが心の奥底に、泣き出してしまうような何かをひた隠しにしていたのかもしれない、と思う。
「……だから、謝りすぎだ、おまえらしくない。何回も言っただろ、俺はおまえを捨てたりしない。ずっと、一緒にいてくれって、そう頼みたかった。俺のお願い、聞いてくれるか?」
がむしゃらに抱き締め返した腕のなかで、堰を切ったように、子供のごとく涙しながらしゃくりあげるイザヤの頭を、力いっぱい撫で回す。ふさふさと毛並みのよい耳に触れるたび、反応する感覚を確かめる。
俺の胸板に顔を押し付けながら、何度も頷くイザヤは、本当に小さくなってしまったように見えた。
「俺さ、おまえが話してくれてねぇこと、沢山あるのは分かってた。聞きたいなんて言ったら、おまえに嫌なこと思い出させるんじゃねぇかって、なんとなく……、臭いものに蓋って言うのか? そう思って、怖くて、言えねぇままだった」
柔らかい黒髪に指を通して、何度も撫でてやる。
イザヤの息遣いは次第に落ち着いてきたようだった。
「でも、イザヤにはこれから俺と一生つきあってもらいたい。一生、イザヤには何の心配もなしに、いっつも生意気に笑っていてほしい。
――なぁ、俺に話したってどうにもならないことか? おまえの仕事も、外での生活も、話してくれたら……と思った。俺を信じてくれるなら、の話だ」
イザヤの頬を、両手で挟んで優しく上を向かせてやる。
濡れて引きつる頬を親指で撫でると、イザヤは硬い微笑みを浮かべた。
「……シズちゃん、ありがとう。俺の汚いところなんて、君に見てほしくなかったんだ。シズちゃんが悩んでるの、とっくに気づいてたのに。シズちゃんは歩み寄ろうとしてくれるのにね、俺がばかだったんだ」
「おあいこ、だろ? 俺たちには今からだって時間がたくさんある。ゆっくり話していけばいい」
イザヤがゆっくりと頷く。背中に見た動揺は癒えないが、俺までつられて泣きそうになりながら、イザヤから手を離す。
躊躇いを押し殺すように、言葉は紡ぎ出された。
「ぜんぶ、聞いてくれる?」
イザヤの真っ直ぐな瞳は、赤く濡れていて、ああ、こいつが初めてやってきた、風呂場で出会ったときに見た瞳と、何も変わっちゃいないと、安堵しながら首肯した。
イザヤは一息つき、決心したように吐き出した。
「……俺、昔から身体を買ってもらっているんだよね……」
どれだけ身構えていたって、そのあっさりした告白は、相当な衝撃をもって俺の後頭部を強打したけれど。
***
イザヤ視点の独白に続く。