黒ねこのおきゃくさま(3)
魘されていたらしい。というのは、目が覚めた瞬間に、唸りを上げる自身の声が途切れるのを聞いたからだ。
昨日は色々あった。猫を拾ってしまったり、その猫が人間になって――裸で抱きつかれたり。もし猫が雌だったなら、漫画でよくあるサービスシーンになったのかもしれないが、俺としてはトラウマになりそうなほど克明に脳に刻まれてしまった。
布団の中でだらだらできないし、上体を起こして、大きな欠伸をし、布団を捲ると、予想していなかった光景に硬直した。
「………………怪我してんのに、俺が潰したらどうなるとか考えろよ」
あの後、猫の姿に戻って、与えた毛布に包まって寝ていたはずのあいつが、人間の姿になって、俺のベッドの端に潜り込んでいた。
なんとなく熱いなとか、違和感はあった。魘されたのもこいつのせいかと思う。寝相が良いとは言えない俺の、大きめのベッド、それにこの細身だから上手いこと潜り込んできたらしい。野良猫のくせに、寝やすそうな場所をよく知ってやがる、と、その寝顔を見つめた。
さわり心地の良さそうな耳は、髪の毛の根元からしっかりと生えており、撫でてやると鼻をむずむずと震わせる。うつ伏せになって腕を折り、そこに顎を乗せて寝ているのは、やはり猫の面影なんだろうか。
「む、う」
そいつは小さく鼻にかかった声を上げて、ゆっくり開いた瞼をぱちぱちと瞬かせる。そして手足を思い切り伸ばせば、背中を撓らせ腰を上げて、大きな伸びと欠伸をした。
涙の溜まった瞳を擦りながら、身体を起こして俺を見る。
「おはよう」
「……おはよう」
猫の姿から感じた気品を、そのまま受け継いだような、綺麗な顔立ちをした男だ。着るものがないので俺のシャツを与えてやった。未使用のパンツは丁度なかったし、色々与えると窮屈そうな顔をしたので、裾も長く大きい俺のシャツ一枚のみを羽織って、首を傾げている。
これが女だったら、もしくは俺が女だったら、一晩を共にしたような錯覚に陥るんだろう。
何を話したらいいのか迷っている内に、きゅるる、と可愛らしい音が、そいつの腹のあたりから聞こえてきた。
そいつも沈黙して自分の腹を見た後、不思議そうな顔で俺にねだる。
「お腹、すいたよ?」
「え……、おまえ、何食べんの?」
「人間の食べるもの……。キャットフードでもいいけど、この舌だと美味しくない」
「いいけど、誰かに食わせる予定なんてなかったから、コンビニのパンくらいしか入ってねぇぞ」
「…………、じゃあ、キャットフード食べるよ」
どうやらこいつは、贅沢な舌を持っているらしい。俺が食べるものよりキャットフードの方がマシな味がすると言われたようなものだろう、複雑な気持ちにはなったが、キャットフードを皿に注いでやると、猫の姿に戻ったそいつが、シャツをもさもさと払いのけて口をつけ始めた。
俺はその隣で黙々とパンを齧る。
「おまえ、猫なの? 人間なのか?」
問いかけても、猫の姿のそいつは首を傾げるだけだった。当たり前だ、猫は喋ったりしないんだから。キャットフードを平らげたそいつは、満足そうに顔を撫で付けて、ボワンと風を起こして人間の姿に戻る。
勿論、このときは全裸である。食事中に男の裸を見ることになるとは、なんとも残念な気持ちだ。綺麗な身体であるのが救いだろう。そんな俺の気持ちは露知らず、特に気にする様子もなく俺の目の前を通って、シャツを羽織り直す。
「俺は、猫だよ」
さっきの質問の返答なんだろう。俺の隣に膝を丸めて座ったそいつは、身体を俺に預けてくる。甘えているのだろうか。それとも、マーキングってやつだろうか。
「俺はね、兄弟の中で一番愛想がなくて、模様も面白みのない黒だったから、貰い手がなくて捨てられたんだ。人間になれるのは、なんでだろうね。捨てられる前に人間の姿になったって、置き場がなかっただろうしね。実を言うと姿を変えるのは疲れるから今日はこれ以上変わりたくないんだけど。まあ、とにかく人間の姿になれば、まだ食にありつけたんだ……。でも、昨日はちょっと、辛いことが続いていてね。もう、いいかと思って……」
まさか死ぬつもりだったのだろうか。辛い思いをしたのかと思えばキリリと胸が締めつけられる。俺は咀嚼しながら静かに頷いて相打ちを打っていたが、そいつは言い淀んで目を伏せてしまった。そして、不安そうな瞳を揺らし、俺の顔をじっと見つめて、口を開く。
どこかで恐れていた質問が、俺に投げかけられる。
「君は、俺を飼ってくれるんだろうか?」
返答に詰まる。
怪我が治ったら、元の場所へ戻すつもりだった。それが、人間の姿になって、こうして会話を交わしたことで、情が湧いてしまったのも確かだ。一々仕草が儚げで、今にもどこかへ行って霧の中に消えてしまいそうな、その存在を見守ってやりたいとも思った。
と言っても、猫の姿であれ、人間の姿であれ、俺の家に置いておくことは経済的に難しい。
よっぽど苦しそうな顔をしていたんだろうか、そいつは申し訳なさそうに笑った。
「君、いつもそんなものばかり食べてるの?」
「まあ、な。自炊もするけど、そこまで上手くねぇし」
「お金に困る? それとも、俺みたいなのを飼うのには抵抗がある?」
「抵抗、とか、そんなんはねぇ。俺だって、おまえみたいなやつをどうこう言える人間じゃないんだ。それに、偏見とかもねえ、馬鹿にしてくれんな」
「やっぱり、資金の問題?」
残念ながら、図星だった。
金金煩い人間になりたかねぇが、何かを養うっていうのは、責任が必要だ。そこには経済力だって、勿論含まれる。
「無責任に世話されたって、おまえが辛いだろうが。今の俺じゃ、おまえに快適な環境を提供してやることはできない、と思う」
眉根を寄せていると、そいつは俺に腕を絡めてにっこりと笑った。唇が綺麗に弧を描く。
「お金なら、心配しなくていい。ちょっとアテがあるんだ、街に居たときのツテがね。君が宿を提供してくれるなら、きちんと利益が出るようにお金を払うよ。……俺は、君と暮らしたい。すごく、寝心地がよかったんだ……、きみの、となり」
照れたように笑うそいつは、完成した一つの美術品のように、絵になっていた。
胸に、温かいものが流れてくる。
色々なやつから怖がられて、人間に限らず動物だってそうだ。懐いてくれていたのに、俺が暴れるときに巻き込んでしまって、それから尾を巻いて逃げてしまうようになった犬もいた。
何かから俺に歩み寄って来てくれること、それがこんなにも心に響くことだとは、思いもしなかった。
「おまえ、名前あるのか?」
パンを食べ終えた俺は尋ねた。そいつは、嬉しそうに笑いながら、そして少し考えるような仕草を見せると、言った。
「そうだね、人間の姿で街を歩くとき、”イザヤ”って呼ばれていた。小さい頃、聞いた名前だ。兄弟につけられたのか、昔俺の家族だった人間の誰かの名前なのか、もうわからないけど」
「じゃあ、イザヤ。おまえを拾った以上、不安な生活はさせねえ。……金のことも、すぐ必要なくしてやるから、ちょっと、待ってくれ」
大きく頷いたイザヤは、俺の腕に頬を擦りつけてきた。頭を撫でてやると、気持ち良さそうに目を細める。猫の姿だったらゴロゴロと喉を鳴らしているのだろうか。急に、こいつが可愛くて仕方なくなった。言っちゃ悪いが、こいつは人間に媚びる仕草をよく学んでいる。事実、俺は単純に心を動かされていた。
俺に身を任せていたイザヤは、かぷりと俺の指を甘噛みすると、にまっと笑ってみせた。
「ああ、彼女とかを連れて来るときは、可愛い猫のフリをしておいてあげるから、安心してよ」
いねぇんだよ馬鹿。
気の回る奴で大変嬉しいが、俺の返事に「やっぱりね」なんて笑うイザヤは、とんでもないやんちゃ野郎なのかもしれない。
というわけで、本日、俺の家族が一人増えました。
幽にはまた、後でメールをしておいてやるつもりだ。