黒ねこのおきゃくさま(2)
その猫は、脚を怪我していて、更に飢えていたのだと新羅は言った。
黒猫を抱いたとき、動物独特の温もりよりも、その冷たさが弱弱しかった。
首輪はついていない。この様子では、ノラ猫だろうね、と、また新羅は医者らしく言った。なんだかんだで、動物の治療もできるようだ。「万能だな」と感心して声を掛ければ、「小さい頃はよく動物実験も手伝ったからね」と返事があって、そういうことかよと呆れた。それでも、感謝は深い。
新羅は、俺と猫を家に送り届けて、脚の治療をして帰っていった。足の怪我は軽いが、飢えの衰弱が大きいからと、準備の良い新羅は猫用の缶詰とキャットフードを残していった。
ぐったりとしていた猫を暖かい毛布にくるむと、もぞもぞと動く気力は取り戻したようだ。牛乳の入った皿を目の前に置いても飲まないので、鼻先に近づけてやると、鼻についた牛乳をペロリと舐め、そのままちろちろとした舌先で、牛乳の表面をピチャピチャと弾く。
よく見ると、綺麗な顔立ちをした猫だ。
黒猫は目が黄色だとばかり思っていたが、この猫は、宝石を嵌め込んだように輝く、透明感のある赤みを帯びた瞳をしている。耳の形も、ツンと立って美しい。シャープな顔の形、立派な白いひげ、しなやかな背中のライン。
癒しの可愛さを感じるより、緊張する美しさがそこにある。それほど、気品あふれる猫に見えた。
俺が皿を下に置くと、首を伸ばして舐めている。柔らかくほぐした猫缶を一缶分、豪快にトレイに開けて隣に置いたとき、背中に寒気が走った。
そういえば、濡れた服を着替えていなかった。「君も風邪を引かないように」と新羅に言われたことを思い出し、シャワーを浴びることにした。猫は心配だが、物の少ない家だし、危ないものは置いていないし、駆けずり回る元気もないだろうと、「風呂に行ってくるな」と声をかけて部屋を出る。
あの猫が元気になったら、あの場所に返しに行くつもりだ。
服を脱ぎ、風呂場のドアを開ける。
これが自己満足、あるいはエゴってやつなのか。
でも、目の前で人が死に掛けてて助けないやつはいないだろ? 生きようともがいているやつを見捨てるやつはいないだろ?
シャワーを全身に浴びると、風呂場中に湯気が立ち込めて、視界が白く曇る。冷えていた体が、じんわりと芯から温まっていくのを感じた。
安らいで、油断していたのだろうか。
ギィィ、と風呂場の扉が開く音がしても、すぐには気づくことはできなかった。
「お、おい!」
足元に、あの黒猫がいた。
――まさか、風呂場だぞ!? 猫は水が嫌いだろ!? つーか、歩けるのかよ!
俺の脳内は混沌とする。扉が僅かに開いていて、湯気が吸い込まれるように外へ出て行く中で、はっきりと赤い瞳で俺を見上げている。
シャワーを止めようと蛇口を捻ったが、遅かった。ゆらりゆらりと俺の足元へ近づき、全身にシャワーを浴びた。
ああ、濡れちまう。怪我をした脚も、ふさふさとした耳も、全部。
――――――全、部。
「――――ぷはぁ」
今、息を吐き出したのは、俺じゃない。
加えて言うなら、さっきまで足元にいた、猫でもない。
額に張りつく髪の毛を掻き分けながら、顔を擦っているのも、俺じゃなくて猫じゃない。
猫がいたそこに、猫の耳と尻尾がついた、全裸の、黒髪の男がいた。
「お、おま、おまッ、なななんだッ!?」
狭い風呂場にいきなり現れた見知らぬ男。しかも、裸だ。風呂場だから当然といえば当然だが、今はそんな常識はどうでもいい! 猫耳までつけている! これはおかしい。
後ずさりをしようにも、すぐ後ろは壁だ。ぷるぷると頭を振って水滴を飛ばす男は、その赤みを帯びた切れ長の瞳で、俺を見上げる。ひくひくと動く耳、唇を舐める赤い舌。見たことあるはずがないのに、ついさっき、どこかで見た気がしてならない。
俺に一歩歩み寄った男は、首を傾げて上目遣いをした。白い指先が、俺の胸元に触れる。女のようにしなやかな動作だった。恐ろしいほど、色気があった。離れろと怒鳴ることができない。男の唇が、僅かに開く。
「……どうしても、喋っておきたいことがあったから」
「……は?」
至近距離に、あの猫の宝石のような眼が、男の中に見える。
「連れてきてくれて、ありがとう」
首を傾げたまま、僅かに微笑む。
「…………どう、いたしまし、て……」
俺だって驚くわ。でも、信じない理由もなかった。
自分の目の前で起こった出来事だし、だいたい、俺の力だって反則的なもんだ。セルティみたいなやつもいる。お湯被って、人間になれる猫だって、いるに違いない。
……そうだよな?
間抜けな顔をした俺に擦り寄ってくる男は、俺と同い年くらいに見え、身長は俺より低い。無駄なく筋肉のついた白い肌が浮かび上がり、その左足は新羅の治療の跡がある。
今、バスタオルに包まれて呼吸しているそいつは、毛布に包まれたあの猫を思い出させる。
――というか、そのもの、なんだってな。
濡れた髪の毛を乱暴に拭いてやった。家に客人が一気に二人も増えた、そんな変な気持ちだった。