恋は腹 (2)





「シズちゃんさぁ」

 呼びかけたのに、まるで俺はこの世界に存在していないみたいに、無視された。
 それでも、ちらちらと振り返る通行人が、やはり俺はここに立っているよね、とどうしようもない不安をなくしてくれる。でも、用があるのは君らじゃない。

「シカト? よくないなぁ、実によくない……。気味が悪いなぁ。体調でも悪いなら、新羅に見てもらったらどうだい?」

 シズちゃんは、まるで、振り向こうかどうか、逡巡したようだった。
 さっきもやたらと目についた長い脚が、踏み出すか、踏み出すまいか、不器用に軋むのがわかった。

 一息置かれた、それは1分でも10分でもあるかのようだったけれど、実際は、俺の瞼が数回開閉を繰り返した程度だった。

 さあ、怒鳴りかかってこい。
 捕まったとしたら、譲歩して、腹に一発くらいなら殴られてやるから。 
 俺はポケットの中でナイフを握りこんだ。

 シズちゃんは緩慢な動作で振り返った。背中を向けたまま、必要最低限に首が動いただけだ。きれいに通った鼻の形を、逆光が印象づけていた。


「……なあ、もういいだろ、もうやめんだよ」

 落ち着いた声と、眼差しだった。それでも、拳に浮く青筋は正直だ。

 くわえていたアメリカンスピリットはまだ長いのに、シズちゃんは靴底と地面でもみ消した。潰され、灰をこぼすそれは、さながら、無理やり押さえ込んだ憤懣やるかたない思いを滲ませているようだ。

「……やめんだよ。もう、やめだ」

 繰り返すシズちゃんは、俺の肩の向こうのどこかを見ていた。
 繰り返したことで自信がついたみたいに、身体ごと、俺と向かい合う。繰り返していた。俺に語りかけるというよりは、自分自身に語ってきかせるように、はっきりと、何度も。

 ナイフを取り出した手が、指が、力を失っていくのが分かる。
 じめじめと、汗をかいていくのが分かる。
 本能が、言うな、聞くな、聞きたくないと、その先にある言葉を予想して、耳鳴りをもって遮ろうとする。
 それなのに。


「俺は、もう手前と関わらねぇ」


 それは、
  つまり、
   どういうこと。


 呼吸が乱れる。肺を強く押されたように、苦しい。ぞっとする。

 日々対峙してきた暴力的な拳より、振り回される標識より、何よりも恐ろしく冷え切った声だった。

「――シズちゃん? 寝ぼけているのかな? 冗談はその暴力だけにしてよ」
 
 なぜ、こんなに顔が火照るんだろう? 必死になって、次の言葉を探しているんだろう?

 ――どこかでは分かっていたくせに。

 脳裏で誰かが嗤う。

 俺が心の奥底で恐れていたらしいことが、急に目の前に投げ込まれたことに、胸を突かれる思いがした。


「……さんざんよぉ、手前には昔っから振り回されてきたよなぁ。俺がこんな馬鹿力になっちまったのも、手前が一枚噛んだっていってもいいよなぁ。
俺は手前が大嫌いだ、殺してやりてぇ。でもこれ以上、手前に振り回されて面倒ごとを重ねるほうが、もっと俺にとって不毛なことだ。こんな俺を認めてくれるやつもいるってことに、気づいたんだ。もう、俺は手前とは縁を切って――いや、前から縁なんてなかったけどよ、平穏に生きるんだ。だから」

 シズちゃんの並びのよい白い歯がちらつくたびに、眩暈がしそうになった。

「もう、俺に関わるな。俺も、手前を見たって何も言わねぇ。お互い、生きやすく生きようや」

 うんざりした顔つき。紛れもない忌避。

 俺の背筋はすぅっと冷たくなって、それから、どうしようもなく頬が火照るのを感じた。
 目の前の男が、急に一線を引いて俺を見ている。一般人のような面をして。被害者のような面をして!

 それが、許せない。君は誰だよ、平和島静雄だろ!? そんなに大人しくなって。すっかり飼いならされてしまって! ばかじゃないの。

 どうしようもなく腹立たしくて、たまらなくなった。



「……それは、君の理想像である平和な暮らしを手に入れるための、決断というわけ? それって、俺がいなくなったら、シズちゃんは暴力を奮わない自分が手に入ると思ってる、ってこと? 俺のせいで、凶暴な自分を抑えられないから、俺のことを忘れようとしているのかな? そういった理由で、俺は憎まれているのかなぁ」

 シズちゃんは、何も言わずに俺の目を見るだけだ。

 萎びてしまったシズちゃん。怒りの感情もない、無関心そうな瞳。まるで、俺を哀れむみたいに見下ろしてくる。俺はますます饒舌になった。

「ハハ、だったらお門違いもいいところだよ。君が暴力を奮うも奮わないも、君自身の問題で、俺が関与しうることではないのにねぇ。君が数ある選択肢の中から、勝手に暴力という方法を選んだだけじゃないか。君の思うところから俺を切除したって、暴力は君の中にあるんだから、一生付きまとうに決まっているのに、実に面白いことを言うね、君は。責任転嫁が過ぎる、人間みたいだ!」

 暫時、俺とシズちゃんの間には、俺の荒い呼吸だけが響いていた。

 俺の眉根には、深く皺が刻まれていることだろう。これじゃあ、まるで、いつものシズちゃんと俺の立場が、逆になったみたいじゃないか。

 君に、そんな冷静な顔は、似合わない。

「……もう、言いたいことはないか」
 
 子供が泣き止むのを待ってやる母親のように、俺の呼吸が落ちついた頃、シズちゃんが切り出す。
 俺の耳の奥で、屈辱からか、怒りからか、俺の奥歯が軋む音が聞こえた。

「…………呆れてものも言えないよ」
「そうか、じゃあ、ここまでだ」

 シズちゃんがそう言うと同時に、道の角からシズちゃんの上司が姿を現した。そして、まるでシズちゃんを見つけたときの俺のような反応をする。

「げっ! 静雄、落ち着け!」
「良いんすよ、トムさん。次、行きましょう」
「あ? あぁ……?」

 眼を丸くして、俺とシズちゃんを見比べるトムさんは、正常な反応をしていると思う。おかしいのは、滑稽なのはシズちゃんだ。そんなシズちゃんに背中を押されていく。

「……逃げんの……」

 猛烈な怒りが腹の底から湧いていた。
 行き交う人々と同じ色に染まろうとするシズちゃんを、今殺さないでどうすると思う。

 ――でも、動くことができない。

 こんな感情、知らない。知りたくない。

 だから、俺も背中を向けるしかない。

 周囲のざわめきに、聞こえない程度の皮肉を零して、俺は障害物のなくなった仕事先へと向かう。

 シズちゃんのいない世界は、こんなにも快適だ。



「三日坊主にならないといいね、シズちゃん」
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