恋は裏腹 (9)
――忘れないでくれさえすれれば、それで良かったんだ。
すっかり俺の頬の熱を吸ったデスクに倒れこんだまま、昔の出来事を思い出していた。
部屋の大きな硝子張りの窓から透けた、あの日と同じような濃いオレンジ色の光が俺の背後に手を伸ばす。
どうやって家に帰ったのかも覚えていない。重症だ。――重傷なのか。
途端、鋭い頭痛が襲いかかってきて、俺は頭を押さえた。次ぐのは眩暈。俺の全身が忙しなく不調を訴えている。風邪でも流行っていたのだろうか、そう思いたい。認めたくない。彼が俺のことを忘れようとしているなんて。
「馬鹿野郎……」
机にうつ伏せになって、喘ぐように搾り出す。
どうして今になって。全て、上手くいっていると思っていた。そうではなかったんだね、シズちゃん。シズちゃんは一人で、大人になろうとしてしまっているんだね。
あの頃から、ずっとずっと秘めていた俺の気持ちは変わっちゃいないのに。
「もう行き場がないんだよ……」
許されないはずの弱音が口端から零れた。――と同時に、プライベート用の携帯電話の着信音が鳴り、滅多に耳にすることのないそのメロディに、心臓どころか身体も跳ねてデスクの下に膝をぶつけて悶絶する。
携帯は職業柄いくつか使い分けているが、プライベート用の番号を知っている人間は、家族か、もしくは今でも顔を合わせる学生時代の友人くらいだ。
一瞬、まさかと思った自分を嗤った。俺の携帯にシズちゃんの番号は登録されているが、あっちは俺の番号なんて知る由もないのだから。画面を確認すれば、一番かけてくる可能性がありそうだと思った、新羅からの着信だった。新羅からプライベートの番号に電話がかかってくることは珍しいので、何かあったのだろうか、と考えて、二度目のまさかに辿り着く。いや、まさかでなくても、もしかしなくても、話題は一つに決まっている。携帯をつまむと、溜息をつきながら通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『やあ! 君ってそんなに低い声も出せるんだって程にくらーい声をしているけれど、何か面白くないことでもあったのかい?』
朗々とした挨拶はブラックジョークのつもりかと顔を顰めながら、椅子を引いて脚をデスクの上へ投げ出す。
「――白々しい、聞いたのか?」
『セルティが静雄と話したみたいでね。……何やってんのさ。だから、むかーし僕は忠告したよ? ま、すんなり受け入れるような臨也は臨也じゃないんだろうけどさ』
「で、どうした? 運び屋に気にかけてやるように言われたのか? 生憎だけど、この件について俺はノーコメントだ」
恐らく新羅が言いたいのは自業自得という四文字なのだろうが、そんなことは痛いほどよく分かっていた。考えたくないけれども逃れることができない問題。堪えるように唇を噛むと、電話の向こうで新羅が溜息をついた。
新羅に指摘されたように、俺の語調は刺々しくなっているかもしれない。一旦肩の力を抜いて、足を組み替えた。
『いや。でも、明日の夜はセルティがいなくて寂しいからさ、どう? 久々に食事でも』
「……何企んでる?」
突拍子もない提案に、思わず身体を起こす。新羅から食事に誘われるなんて初めてのことだ。それも彼らしい彼女の穴埋めという口実で。何を謀ろうとしているのか知らないが、下手に気遣う様子も見せないいつも通りの彼になぜか安堵した俺は、ずっとへの字に曲げていた唇の力を緩めた。
『君はどうしてそう斜めに構えるんだい? 君がノーコメントでもいいよ、私が昔話をしたいだけだからね』
「傷が痛む俺にはお構いなしに、塩を塗りこんでくるわけか」
『痛むなら、適切な処置をしないとね』
「それが新羅とのカウンセリング? ……いいよ、付き合ってやっても」
机の上を人差し指で叩きながら、そう返事をした。
無性に人恋しいのはなぜだろう。新羅と話をして、少しはこの傷が癒えるかもしれない。人を呪わば穴二つ。シズちゃんを傷つけてきた俺の心が切り裂かれるのは、因果応報なんだろうけれど。
『そう、それは良かった。じゃあ、××××で、明日の19時でいいかい?』
新羅が提案してきたのは、どの時間帯でも賑わっているような全国チェーンのファミリーレストランだった。若い頃には何度か利用したものだけれど。
「ファミレスでするような話かい? 俺の得意先でよければ個室が」
『じゃ、明日。忘れないでね』
「あっ、ちょっと」
ブツリと来れた電話を暫く耳に当てたまま、誰もいない部屋の片隅を見つめていた。
一人の空間が、やたらと広く感じる。いつも俺の傍には誰もいなかった、それなのに、俺の中から抜け落ちてしまったのはいったい何だったんだろうな。
携帯を机の隅へ滑らせて、分かりきった自問自答を繰り返しながら、もう一度机に突っ伏した。