(7) 腹は恋 






 放課後、さあ帰ろうかと机の中の教科書を取り出していた新羅は、どこの教室のものだか、机が廊下を勢いよく転がっていくのを見た。
 その後に続くように駆けてきたのは静雄で、ワックスで滑る廊下を上履きで踏みとどまりながら、一度通り過ぎた教室後方の扉へと戻ってきた。

「新羅! 臨也見なかったか!」

 髪を振り乱した静雄は、新羅にそう尋ねた。いつもいつも大変だなあ、などと思いながら笑顔で答える。

「いや、見てないよ」
「ちっくしょう、確かにこっちに逃げたと……! 逃げ足だけ速くなりやがって!」

 呼吸を整える静雄をよそに、新羅はカーテンを纏めるついでに、さり気なく少し開いていた窓を閉めた。軽やかなステップで遠ざかっていく学ランの背中を見下ろすと、静雄に向き直る。

 臨也を庇うつもりだったのではない。一度、静雄とあることについて話をしてみたかったのだ。

「まあまあ、パンあげるからさ、僕に免じて今日は臨也を見逃してやってよ」
「……新羅は臨也の肩持つよな。あれか? 中学時代からの付き合いだからか?」

 新羅に手招きされて、隣の席へ腰を下ろした静雄は、くんくんと鼻を動かした。まさか臨也のにおいがするなどと勘付くんじゃあるまいな、と新羅は静雄を観察しながら、鞄から取り出した昼食の余りのクリームパンを手渡す。静雄は片眉を吊り上げながらも、差し出されたパンを受け取り、ビニールを破ると大口で齧りついた。

「別にそんなんじゃないよ。やってることは到底褒められるもんじゃないしさ。でも、まあそうだね。付き合いがある分、臨也が楽しそうにしてると、少し嬉しいような気もするんだ」
「なんだ、あいつの悪趣味のために俺に犠牲になれってか?」
「違う違う、僕がそんなに非情な人間だと思われているとは、沈痛慷慨、九腸寸断の思いだよ!」
「何言ってるのかわかんねぇ……」

 口端のクリームを親指で拭って、静雄は呆れ顔だった。

「臨也はさ、ちょっと、いやだいぶ歪んでいるけど、意外と世話焼きだし、妹の面倒だって見てるし、普通の高校生らしいところもあるし」
「まさか、としか言えねぇな。まー確かに、普通にクラスの奴等には愛想いいんだよな。だけど、俺だけ……」

 前方の黒板を見つめながら吐き出した言葉を濁し、パンに何か恨みでもあるかのように噛み千切る。
 
「君は臨也に気に入られているんだよ、特別なんだ」

 その言葉を聞いて、ますます「何を言っているんだこいつは」といった表情で横を見た。

「あの臨也が『例外』を作った。高みの見物をしていた臨也が、自ら君と対峙して、パルクールを習得してまで身体でぶつかる。これを特別と呼ばずになんと呼ぼう。僕はいい意味で特別だと思っているけど」
「どう考えても悪い意味で特別だろ? 俺はどうせ人間じゃない、化物らしいからな」

 フンと鼻を鳴らし、早いものだ、最後の一口を頬張った。

「僕はさ、臨也がようやく誰か一人と向き合えるようになったみたいで、嬉しいんだ。殆どの人が無理だよ。静雄はなんだかんだで臨也と向き合ってくれるから」

 変かな、と新羅は笑った。静雄は一瞬寂しそうな目をして、何か言いたげに口元を動かしたが、口の中のものと一緒にそれを飲み込んだ。


 何かが間違っていたんだ。そう静雄は思わずにいられなかった。
 自分がこんな力を持って生まれてきたことか。普通の人間だったら絡まれることもなかったのか。それとも、臨也に出会ってしまったことか。――それとも。


 静雄には本音にしなければならないことがあった。少しだけ、自分に嘘をついていた。誰にも話すつもりはない。一生、抱えていかねばならない嘘なのだ。

 けれど、新羅は何か気づいているだろう。

 もちろん、そんなことは口に出さなかった。隣に座る友人が教科書を鞄に詰めるのをぼんやりと眺め、夕空を見送った。

 それからは変わらぬ騒がしい毎日が過ぎ、静雄と臨也の関係は険悪なまま、月日は過ぎた。季節が移ろうたびに、静雄はあの放課後を思い出した。冬を越え、黒い幹をむき出しにした木が芽吹き始め、生徒たちはどこか大人びた顔つきに変わる。
 ――高校三年の冬が、終わりを告げようとしていた。

 
 
 
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