恋は腹 (1)





 へいわじましずお。

 池袋の地に降り立つと同時に、必ず脳内を巡る、その名前。

 平和島静雄。

 その温厚な字並びから繰り出される暴力を知っているから、脳内からその不愉快な存在を駆逐しようとする。

 仕事で池袋へ出向くとき、俺が唯一注意を払っているのが、その男だった。

 俺の深層心理はいつも、彼が轟かせる憤激の雄叫びを警戒している。
 あいつのことが大嫌いだから、あいつの姿を探してしまう。その皮肉さが、軽く唇を噛むほどには不愉快だった。

「早く終わらせよう。鬼の居ぬ間にね」

 携帯を掌におさめ、俺は人の流れに紛れて歩み始めた。

 この後すぐに、人と顔を合わせる仕事を控えている。
 あの暴力馬鹿の挨拶をくらって、惨めな面で取引するのだけは御免被りたい。

 彼の活動場所におおよその見当をつけて避けているつもりだけれど、思い通りにいってほしい反面、思い通りになってしまうのもおもしろくない。

 そんなことを考えているうちに、俺の眉根にふたつくらいは皺が寄っただろうか。

「――、なんだか」

 脚も腹のあたりもむずむずとして、素早く180度、視線を巡らせた。
 スンと鼻をすすり、髪の毛のあたりを泳ぐ、紫煙の香りに眉をひそめる。

「シズちゃんの、においが」

 コートに忍ばせたナイフを握り込む。
 俺の脇を通りすぎた煙を振り返っても、猫背なサラリーマンの背中が遠ざかっていくだけだ。違うな、と、別の煙を目で追った。

 シズちゃんのにおい。煙草と、整髪剤と、下品な女に擦り寄られでもしたかのような、甘くて攻撃的なにおいだ。シズちゃんは俺が臭い臭いと失礼なことを言ってくれるけれど、君も充分わかりやすくにおうよ、と言いたくなる。あと、俺は臭くないから。

 五感が警告する。鼻の奥に残っている、いや、今も漂っている。
 これだから、楽しいよねぇ。なんて歪める唇も、今日ばかりはぎこちない。
 
 今日は逃げないとまずい。出会う前に、姿を見られない前に。

 保身第一、ここ重要。
 とりあえずは、目前のビルとビルの隙間へ身を隠そうと思い、早足に前へ進んだ。強い向かい風に、コートの裾が翻る。
 目を細めてかぶりを振る。
 髪が靡いて浮いたとき、ふわりと頬を撫でた濃密な香りに、「やばい」と思うのが先だった。
「止まれ」という脳の判断は、一足遅い上に、意味を成さずに消えた。

 

「シズ、ちゃん」


 目指した場所から、長い脚を持て余したかのように気だるげに出てきた、俺のだいきらいな男。
 黄色い頭にサングラス、銜えた煙草の煙は、風に流されて散り散りに吹き飛んでいく。これが発信源をごまかしていたのかと、歯噛みした。
 
 俺とシズちゃんの間隔は5メートルあるだろうか。彼と視線がぶつかる前に、脚を一歩引く余裕はあった。

 今日に限って、最悪だ。

 俺の視界を奪うのは、隣に駐車してある捨て置いたようなバイクか、斜め後ろにある標識か、はたまたビルの地下へと誘う電子看板か。


 シズちゃんの横顔が、ゆっくりと振り向く。
 流れた視線は、真正面に俺をとらえた。

 激昂したシズちゃんは、目を見開いたかと思うと怒りに任せて俺の名を叫び、手短な公共物を躊躇いなくもぎとり、投げつける――。


 たとえばそれは、俺の意のままになった世界。



「……え?」


 目を見開くところまでは、予想通りだった。
 こめかみあたりに浮かび上がる血管の筋も見たし、煙草を噛み潰す勢いで食い縛られた歯も見えた。
 
 それなのに、あろうことかだよ、誰も予想しなかったことさ!


 シズちゃんは、俺に大きな背中を向けた。


 見えてなかったの、シズちゃん。気づかなかったの、シズちゃん。

 そんなことってあるだろうか。
 確かにそこには嫌悪があった。まだ背中に燻っているのもわかる。固くなった拳も、いからせた肩も、俺の目の前にあるんだ。

 それなのに、あの乱暴な口は閉じられていたし、そろそろ視線を凶器とする技を身につけたかと思うような、鋭い眼光は俺を射抜いていない。


 シズちゃんが、池袋で俺の姿を見つけたんだ。
 こんなことは、今まで一度だってなかった。

 俺の名前を叫びながら、殴りかかってきてもおかしくない。いや、それが正しい。その行動が人道的に正しいのか否かはさておきだ。

 あれっシズちゃんってば見なかったふりをしてくれるの? 儲かったありがとう! 好都合だめでたしめでたし!
 そう割りきって、仕事へ向かえたら、どんなに良かっただろう。


「ちょっと、シズちゃんさぁ!」


 声を張って呼び止める俺も、大概ばかだと、誰か気づかせてくれればよかったのに。


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