恋は腹 (5)






 へいわじましずお。

 俺の両親が授けてくれた、大切な俺の名前。

 平和島静雄。

 その温厚な字並びの通りに、俺は静かに生きていたかった。

 人並みに、平穏な日々を望んでいた。高校に入ったら、変われるはずだ、変わろう、そう決意していた。

 なのに、臨也。手前が全部、ぶち壊してくれやがった。いつも、手前を追い掛け回していた。
 気づいたときには、もう、大人になった俺がここに立っていた。
 そして俺はまだ、臨也を追いかけていた。







 臨也の気配を感じていた。しかし、あえて無視していた。
 俺に用があるのだと思いたくなくて、俺が関らないと言ったのをいいことに、池袋を闊歩しているものだと思いたかった。

 飛んできたナイフを弾いて、そのまま視線を上げれば臨也が立っていたはずだ。
 しかし、そうはしなかった。驚いていたのだ。認めたくなかった。昨日の臨也の態度への違和感。まだこうして俺に絡んでくるあいつの気持ちが、わからなくて、わかりたくなくて。


「だ、大丈夫だった? 今の」

 ひょんなことから何かと良くしてくれている、飯屋の店主の視線が動く。臨也は去ったな、と思った。

「大丈夫っす、何でもないんで」
「君も、大変だねぇ」

 早々に仕事が片付いたので、トムさんと別れ、こうして立ち話をしているわけがだ、トムさんは気を遣ってか、臨也の話題には触れてこなかった。

 トムさんや仕事仲間は、優しい。俺は、いい仲間に囲まれている。

 ずっと一人で生きるしかねぇと思っていた。不器用だし、こんな力で怖がられるし、散々だと思っていたのに、こんな俺と付き合ってくれる人もいる。

 俺は今、幸せだ。だから、臨也のことなんて忘れてしまえばいいんだ。あいつの顔さえ見なければ、俺の怒りの対象九割強を占めるノミ蟲と関わらなければ、きっと少しは平凡な毎日を送っていけるはずだ。俺を受け入れてくれた人のためにも、変わらなくちゃなんねぇ。

「俺、もっと頑張んなきゃなぁ」
「静雄は今でも頑張ってんだろ? まあ、やりたいようにやりゃあいいさ」
「そうできたらいいんだけどな。じゃ、また近いうちに行くから」

 温かい言葉がくすぐったくて、背を向けて歩き出す。一人になれば自然と思い出されることが何かは分かっている。

「もう、関わらねぇんだ。決めただろ。考える必要もねぇだろ」

 忘れるつもりだ。それなのに引っかかりやがる。
 今日何本目かわからない煙草に火をつけた。

 捲くし立てられた言葉の中には、確かに心あたる部分もあった。臨也のことを忘れたからといって、俺がキレて暴力を奮うことが無くなるかと言えば、俺次第だ。

 だから、変わるんだよ、臨也。
 お前もそろそろ、鬱陶しい俺から解放されていいじゃねえか。


 空に煙を吐き出すと、ビルの角から黒バイクが飛び出してきた。

「セルティ」

 呼び止めると、激しく車輪を地面に擦って、セルティがブレーキをかけた。

「急ぎか?」
『いや、今から帰るところだ』
「……どうした?」

 セルティには首がない。だから、表情を見ることは叶わない。それでも、どこか拍子抜けしたような雰囲気を纏っていた。なんとなく、首から吹き出す影の揺らめきに、表情が読めるようになっている気がする。もう、こいつとも長い付き合いだ。こいつも、とてもいい奴だから。

『いや、言っていいことはないと思うけど、さっき臨也とすれ違ったから。気づいているかと思って』
「……そうか」
『静雄?』
「セルティ、俺、臨也とはもう関わらねぇって決めたんだ。あいつにそう言った」

 躊躇ったような指先が、PDAのキーを叩く。

『言ったのか』
「ああ、もう止めにしようってな。もう、イライラすることもねぇ、俺とあいつは関係ないんだから。セルティや新羅にも迷惑かけたよ。悪かった。俺も少しは成長しねえと」

 肩を竦めて笑うと、セルティは指先を戸惑わせた。

『本気でか? もう、喧嘩したり……、喋ったりもしないってことか』
「変か?」
『いや、凄いと思うぞ。静雄がそうやって決心したのは。ただ、ちょっと驚いただけ』
「本気で切らなきゃ切れねぇ腐れ縁だったからな。おかしなもんだろ。昨日見たテレビ番組の話とか、音楽の話とか、一切したことないんだぜ。友達らしいことをした覚えも、勿論ねぇし。……もともと他人みてぇなもんなのに、どうしてここまで付きあっちまったんだろうな」

 なぜだか俺の口は懐かしむようにそう語り、ふと空を見上げた。高校時代、あいつの策略にはまって、臨也を追い掛け回してトラックに撥ねられた、あの日の空を思い出す。
 セルティは躊躇いがちに、こう入力した。

『そうだったのか……。いや、臨也がこの上なく不機嫌そうな顔をしていたから、何かあったかとは思ったんだ』

 差し出されたPDAに並んだ文字が、胸に引っかかっていることを突きつけてきた気がした。



 そうなんだ。あいつはなぜか、不機嫌だったんだ。

 だってあいつは俺のことを殺したいくらいに嫌いなんだ。

 ――話をしたら、きっとうざってえくらいに喜びやがる。
 池袋にやって来るたび、毎度毎度散々追い掛け回して、時には殴ったし蹴ったし転がしたし、そんな日々から解放されるってことだ。俺が振っただの振られただの、そんな話みてぇに、俺に先に言われたことに文句を言うかもしれないが、まあそんな顔を見るのも最後だと思えば耐えられるな。――そう思ってたのに。

『まあ、私が口を出すのもよくないな。臨也には悪いけど、付き合いを勧められるやつじゃないし。進歩だよ、静雄! 新羅はもう知っているのか?』
「まだ言ってねぇ。けど、いつかは知れることだしな。セルティから言ってくれてもいいぜ」
『そうか、わかった。それじゃあ、なんて言うか……頑張れ!』

 セルティはそう書きこんだPDAを影の中にしまい込み、親指を立てると、傍らをすり抜けていった。

 俺は再び歩き出したが、釈然としなかった。

 話をしたときに一瞬見せた唖然とした表情が、珍しく取り乱したような臨也の表情が、頭の中に渦巻いている。頭を振って、くだらないビジョンを掻き消す。
 

「なんだってんだよ……」



 こうなることを望んでるって言ったのは、手前だぜ、臨也。



 噛み潰したタバコの灰が、靴の上に散っていった。






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