恋は腹 (4)




 郵便局のポストへ薄い封筒を投函すると、一息ついた。これで俺の仕事は終わったことになる。さあ、帰ろう――という訳にはいかない。もうひとつ、やらなければいけないこと。俺は目の前のポストを眺めて、いつもこんなものをぶつけてきた男のことを思い出していた。

 シズちゃんは今日も、仕事で池袋をうろついているはずだ。タバコの煙が香るたび、どきりとする。あの日よりも苦しいのは、わざわざあいつと話をしにいくのが目的だからだろう。気がつけば堂々と大通りを闊歩していた俺は、随分と臆病だった。シズちゃんから見つけてほしいと思うなんて、いつものように吠え掛かってきてほしいと願うなんて。


 ――どうかしてる。

 逃げるように横道に逸れた俺は――――まもなく、シズちゃんを見つけた。

 狭そうなビルの出入り口横に立っている。上司の姿は近くになくて、その代わりに、仕事関係の人間だろうか、見知らぬ男の姿があった。

 俺とシズちゃんの距離は、建物一つ分くらいしかない。いつも俺の居所を嗅ぎつけ、吠えかかって飛び出してきたシズちゃんが、この距離で俺の存在に気づかないということはないだろう。

 シズちゃんはその男と何やら談笑しているようで、俺に背中を向けたままだ。
 俺を殴ろうとしていた拳を、男の肩に親しげに置く。肩を揺らして、笑っている。
 そんな君を見た俺は、どうやって声をかけようだとか、皮肉っぽく笑えるだろうかとか、今まで考えていたことを全て忘れることにした。

 やるべきことなんてわかってる。迷うことなくナイフを握り込んだ。

 あの日の俺はどうかしていたんだ。

 切りつけてしまえばよかった。単細胞の扱いなんてお手の物だったじゃないか。一度激昂させれば、馬鹿げた決意なんて何の枷にもならない、そう決まってる!
 俺の手を離れて飛んでいくナイフ。俺の方に身体を向けていた男がそれに気づき、「あっ」とでも叫んだような気がした。今にもシズちゃんの背中を穿たんとしたそのとき――それは弾かれた。

 地面に叩きつけられたナイフは、その衝撃の反動で元通り折りたたまれて、道の脇に滑っていく。


 ――シズちゃんが、瞬時に叩き落した。


 慣れたものだ。相変わらずの反応の良さで、振り向いて対応したのだ。


 

 街は、驚くほど静かだった。


 
 シズちゃんは転がっていったナイフを一瞥すると――何事もなかったかのように、男に向き直って、俺に背中を向けた。



 その瞬間、俺は悟った。


 あぁ、彼は本気なのだ、と。


 もう、全て終わったのだ、と。


 冷めていく。ここ数日昂ぶっていた思いも全て、氷の張った湖に沈められるようだ。息苦しく冷える心と、熱くなる身体。僅かに震え始めた手を、必死に押さえつける。


 彼は人間に戻ろうとしている。


 俺を、忘れようとしている。



 俺はその場を去った。
 仕方のないことだ。俺が仕向けたことだ。いつかはこうなってしまうことも、わかっていたはずだ。こんな日が訪れること。もしかしたら訪れないかもしれないと、甘い考えを抱いていた。

 でも、これじゃあ全部失敗なんだ。


 周囲の雑踏、脇をすり抜けた黒い嘶き、全てが煩わしくなる。面白いほど荒れた心に驚く。唇を噛んでも、痛みは俺を癒してなどくれない。





 馬鹿らしくも湧いてくるのは、裏切られたという、憤慨だった。


 俺は、また独りだ。





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