星を眺めながら、学校の屋上で。

一人、ぽつんと呟いた。










『星注ぐ、ジョウロの底には』













俺は、無口で無表情だと自分でも思う。
生徒に「せんせー!この数学の問題教えてもらってもいいですか?」と可愛く頼まれても、返事を返さず、視線で問題を追い始め、次に口を開くときは問題の回答方法で、それ以外には一切無駄口を叩かない。

表情も変わらない。
時折、批判の声を聞くけれど、でも突然饒舌になれるわけがない。
こうして、教師生活6年目を迎えたわけだが、特別不便だと感じたこともなく、このまま静かに過ごしていればいいと俺は思っていた。



家に帰れば、観葉植物で溢れる部屋。俺にとって、植物は癒しであり、仲間でもあった。喋らずともここにいてくれる友人。だから、部屋は緑でいっぱい。マンションの一室だから、小さいベランダが付いているのだけれど、外に植物を出すことはなかった。外に出してしまえば、何が理由で枯れるかわからないから。一度、外にだした植物が半日もしないうちに枯れてしまってから、怖くて出せなくなったんだ。

(俺の、範疇にあれば…大丈夫なはず…)

自分の範囲内であれば、植物を守ることが出来る。でも、そこから一歩出してしまえば、俺は何をすることも出来なくなってしまう。どうしても、嫌だった。だって、俺が置いていかれているようで。何故だか胸が痛くなるから。











次の日の朝、早めに学校へ出勤し仕事を始めていると、


「おはよーございまーす。」


ゆっくりと、寝ぼけたような喋り方で、一人の先生が職員室に入ってきた。

この人は俺の天敵で、俺が暗いと称されるなら、この人は明るいと言われる立場。ぽやぽやーっとした性格、悩みのなさそうな笑顔満載の表情をみていると、どうしてだかピリリと皮膚に緊張が走った。



「…あ!○○先生ー、今日はおべんとー持参ですか〜?」


へたれた瞳をふにゃっと緩めて笑い、話かけてくるこの人を、俺は拒絶する。


「………。」

「うーん、今日も手堅いですなぁ〜えへへ。」


何が面白いのかわからない。

何が笑いのツボなのかわからない。

この人と自分は感覚を共有できる範囲が全くもってないのだと、いつも身を持って知る。

だから、俺は一度も話したことがなかったし、
これからも話す気がないはずだった。






今日は、自分が校内の戸締りをチェックして帰る日だったので、誰もいなくなった校舎の鍵を確認しながら廊下を歩いていた。すると、階段の端から白衣の裾がちらとみえ、続いて誰かが上に昇っていく足音が聞こえてきた。

ああ、面倒だ…注意するのも、追いかけるのも。

いやいやながら、音の元を辿っていくと、俺は屋上に到達した。白衣の人間はどうやら屋上で何かをしているらしい。

俺は、少し興味を惹かれ、ドアの隙間から覗き込むように屋上を見た。


すると、そこには俺の天敵の先生がいて。


でも普段と様子が違っていた。
誰にでも向けるあの笑みは無く、そう、いうならば俺のような無表情で、じっと空を見上げていた。

何をしだすのかと、観察してると、屋上の隅に移動し水道の蛇口をひねり出した。右手に持ったモノに水を注いでいるらしい。

そして、ある程度水が入ると、また移動して今度は植物の生えているプランターに向けて、モノを傾け始めた。



(…水を…あげてるのか?…)



柔らかに傾けられる手首、伸びたジョウロの先から広がる水滴。その様子は、家で自分がやっていることとまったく一緒で。



俺は、何かいいようのない感覚に襲われた。




天敵だと思っていた奴が、

自分と同じように植物に水をあげている。





(あの人は自分とは違う人間だから絶対こんなことしない。…そう思っていたのに。)






拒絶して、強固に固めたはず壁に穴が開いた気分だった。

拒絶を繰り返してきた俺の領土、そこを守る壁の一部がガラガラと崩れ、ぽっかり空いた隙間からいとも簡単に、あの人は俺の境界線をまたいできたのだ。



しばらくして、ハッと我に帰ると、「○○先生、もう校舎を閉めますよ。」と一声かけた。

相手も驚いたようで、「えっ?…あ、はい〜すみません○○先生〜。」びくりと体を震わせた後、持ってたジョウロを丁寧に水場の横に置き、俺の隣を擦り抜けて階段を下りていった。





その夜、俺は久しぶりに悩んだ。

わからない。あの感情がわからない。

だって、あの人は俺とは違う人なはずなのに。

じゃあ、なんで植物に水をあげるんだ。




なんで…あんな表情を見せるんだ。





ぐるぐる回る悩みは夢の中でも尽きずに、
俺は寝不足のまま次の日を迎えた。










次の日の夜、また屋上を覗いてみると、
やっぱりあの人がいて。

すると、俺の気配に気づいたのか、「あ〜、○○先生〜。こっちに来ますか?」と屋上に俺を招きいれた。俺は断る理由もなかったから、黙ったまま屋上の中央へ移動する。


沈黙していると、あの人は昨日と同じようにジョウロに水を満たすと、夜の闇に紛れた植物たちに、水やりをしだした。

俺はそれを視線で追いながら、思わず「あっ」と声を出してしまった。あの人は、「?どうか…したんですか?」とぼんやり聞いてくる。


どうしよう、言ったほうがいいのだろうか。でも、大丈夫かもしれない。…ああ、でもやっぱり言った方がいいのかな…

迷っていると、あの人は俺に近づいて、しゃがみこんだまま俺を見上げながら、ニッコリ笑った。



「何か…思うことがあったんですよね。」

「……………。」



図星。だけれど、逆にこうも言い当てられてしまうとどうすればいいかわからなくて、軽いパニックになる。目線を地面に向け、どうすればいいんだろうとぐるぐるしていると、彼はこう言った。



「大丈夫です。あなたが必死に話そうとする言葉は優しいものなのだと、僕は知っていますよ。」



まさか、天敵の人にこんなことを言われるとは思っていなかった。

ちらっ、と地面に向けていた視線を彼の方へ移すと、ニコッと笑い返され、口もとに手を当てた。

…久しぶりの照れる感覚に、顔が真っ赤になる。それでも、「大丈夫」と言ってくれた彼に、俺はなけなしの言葉で、声を上げてしまった理由を伝える。


「…右から三番目の花は、夜に水をやらないほうがいい。」


唇を震わせながら出した声は、すぅっと夜空へ溶けていく。それでもきちんと彼には伝わっていたようで、


「わかりました!明日からは、この花だけ昼間に水やりしにきますね〜」


俺の言葉を、零さないよう掬う彼の声が嬉しかった。
立ちあがる彼に合わせ、俺は一歩後ずさる。再び水やりを始める彼の姿を、俺はじっと見ていた。

昨日と、今日のたった二日。

短い期間しか彼の行為を見ていないのに、俺は前まで抱いていた彼への嫌悪や拒絶が、するすると抜け出していくのがわかった。


(俺は…何を元に彼を嫌っていたんだろう。)





しばらくの後、土は潤いを取り戻した。ジョウロの中身は空になり、彼はうーん、と背伸びをしたあと、コンクリートの地面へ仰向けに寝転んだ。右手に掴んだままのジョウロからは、水滴がぽたり、と流れていた。

俺は彼と同じようコンクリートへ寝転んだ。仰向けになると、ちらと彼の様子が見えてしまって恥ずかしかったから、横向きになる。



「……あ〜…。」


「………。」


「…………。」



俺たちは、ぼーっと夜空を見上げて。
心地いい夜風を肌に感じながら、星座を見つけようと頑張る。

彼は、「あれサソリ座ですよ〜」と言うけれど、俺は答えずに心の中で絶対違うだろ、と笑っていた。

ふいに背筋が震え面白いことに、
同時に俺と彼はクシャミをした。



「「クシュッ」」


「………。」


「………。」


「……くしゃみ、同時でしたね。」


「………うん。」


「……ふっ…ぷくく…っあははは、はっ、」


「……わっ、笑うなよ!………お、俺の方が……後にくしゃみしたんだからな!」


「えー?どれくらい後にしたんですかぁ〜?」


「あ……う、……えっとだな…、…。」


俺が恥ずかしくなって、しどろもどろに返事をすると、彼は笑いながら「はい、そうでしたね。俺の方が先にくしゃみしちゃいました!えへへ…」と頬を緩めていた。


「……夜空、綺麗ですねぇ……。」

俺はちら、と夜空に目を向け、

(うん、綺麗だ)

と心の中で相槌をうった。













僕の隣には、あの人がいた。


「………。昔は僕…天文学者に…なりたかったんですよ〜。」


両手を夜空へ向ける。
触れられそうな星々に、僕は必死に手を伸ばす。


「でも、現実はそんなに甘くはなかったんだなぁ…これが。」


知っていた。
いや、知らされたんだ。

年を重ねれば重ねるほど、心に負担がかかっていく。

僕の動きも鈍くなって。

星空はもっと、
遠くなった。


すると横向きになっていた彼が、くるりと体勢を変えて僕の方に向きなおした。
そして一言。



「……あんたが生きているだけで十分だ。」




いつもは、だんまりで何を話しかけても反応してくれない彼が、真剣に僕のことを思って発した言葉だった。
びっくりして固まっている僕に、彼は立て続けに話しかける。


「………定年退職した後にでも、また天文学者を目指せばいい。…生きてさえいれば……何でも出来るんだから……。」


そう呟いた彼は、早いうちに両親を亡くしたらしい。

大切な友人を失ったこと、幾度となく訪れる死別、

彼は夜空の星を見上げながら、
掠れた声で過去を呟く。


けれど、決して悲しみや寂しさを含む言葉を吐くことはなかった。

「それで、自分が不幸だと思ったことはない。
自分は生きているのだから」と。



「……俺は…生きてる。」

「……。」

「……ここで息をしてる俺を見て、きっと誰かが笑ってくれる。


それで…十分だよ。」




そうして苦笑する彼。
話し疲れたのか、ふぅと肩をすくませ、背伸びをした。


僕は、今までこの人が教師をしている意味がわからなかった。
けれど、彼が苦笑した瞬間、この人こそ教師をすべきだと思ったんだ。



(…なんだぁ…、僕、あなたには勝てそうにないですわ〜…)



はは、と改めて見た星空は、
相も変わらず綺麗なままで。


少し溜まった「好き」の感情は悟られない様に心の奥へとしまいこんだ。
けれど、


(僕が思うに、すぐ溢れてしまいそうだわ。)


それは、ジョウロから水が零れ落ちるように。
あなたを思う言葉も思いも、おそらくは。


(結構早い段階で声に出しそう。)


僕の言葉が
あなたの生きる糧となれたら。
それはどんなに嬉しいことだろうか。























そうして、初めてあなたと話してから5年が経ったことを思い出した。
この場所に来ると、どんな思い出でも鮮やかに蘇る。
僕は空を見上げながら、あの人と同じように苦笑してみせた。


「ねぇ、聞こえてます?僕あなたのことが――なんですよ?」


誰もいない屋上で、一人植物に水をやる。


後悔したんだ。

こんな、…こんなことになるなら、


溢れ出るのを待つ前に、言えば良かった。






いつの間にか空になったジョウロを覗くと、薄い水の膜が星々の光を反射している。


それはまるで、星屑に満たされているようで。



僕の目からは、
自然と涙が溢れた。



「ああ…僕も…生きてます。あなたと同じように。」


そう、生きてる。


あなたが言うように、生きてるんだ。


寂しい、悲しい。
苦しい、辛い。


でも、そう感じることすらも生の愛しさだと
あなたが言うから。



「…っ僕が……っ生きているだけで…うっ…十分です、よ、ね。」



きっとあなたが嫌うからと、

ぎゅっと締めつけられた胸の奥に隠した欲を、


もし言ってもいいのなら。


「ううぁ…っんぅ…ぐ…っっうぅ…」







『僕は…あなたにも生きていて欲しかった』と、







声にならない言葉が
溢れたんだ。

















『星を注ぐ、ジョウロの底には。』





おわり。

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