俺は歩くのが好きだ。


足の裏から伝わる道の鼓動、季節ごとにとって代わる風の匂い、不均衡な重さを伝える肩掛けの皮鞄、すれ違う他人、その人の姿。

「歩く」

その簡単な動作は俺にありふれた思い、当たり前の情景を新しく届けてくれる。だから、歩くのは好きだ。駅へ行くときも、買い物に出かける時も、俺は急ぎの用事が無い限り徒歩を選択する。

そうすることでしか出会えない経験があるから。











「背を向けて、歩く僕らの。」












「よっ!」

いつものように駅まで歩みを進めている途中の出来事だった。
向かいからひょっこり突然姿を現したのは、小学校のときの同級生だった。当時の面影もなく、笑顔で俺に挨拶してくるのに驚きはしたものの、俺も笑顔で会釈する。


「久しぶりだな、くまきち。何年ぶりだ?」


同級生の呼び名はくまきち。
当時は背が高く、体格もがっしりしていることからこの名前が付いたのだけれど、俺の前にいるくまきちは当時とは決別するような姿をしていた。どこにでもいそうな爽やかな青年。ほっそりと痩せ、色白な彼を見ていると本当にくまきちかどうかは疑わしい。けれど、俺にはわかっていた。
くまきちの右顔面を覆う火傷の痕。小学生に上がる前、ポットのお湯をかぶってしまったことから残る消えない印。当時の俺たちはこの痕を勲章のように讃えていた。痛みとか、人の気持ちなんてものに疎い俺達にくまきちの気持ちなんて捉えられるわけもなく、ただ勇者に与えられた勲章のように彼の火傷の痕を褒め称えていた。


『すっげーよ、くまきち!カッコイイ!』

『リーダーの証だぜ、きっと!』


今だから言える。あの頃の俺、バカだなぁ…って。くまきちは優しいから許してくれたけれど、きっとどれだけ傷つけていたことだろうか。
そうして少し昔の話に思いを馳せたところで、俺は目の前にいるくまきちをもう一度見返す。あの頃と変わらないのは右顔面の火傷だけ。豪快に笑っていた笑みは無くなっていて、柔らに微笑む様は王子のよう。瞳の色はカラーコンタクトでも入れているのだろうか、青に光りまるでハーフの人みたいだ。髪の毛は金髪、風になびく姿は様になっていた。


「折角木陰からみっちゃんを驚かせようとして飛び出してみたってのに…全然驚かなくなった。つまらん」


「みっちゃん」というのは俺の呼び名。名字から来ている。
どうやら俺を驚かせるのに失敗したくまくちはぶーたれながらも俺の隣に立ち、一緒に歩き出した。


「俺は大人になったからな。って、くまきち、お前ももう大人だろ?今仕事は何やってるんだ?」


ゆっくりと地面を踏みしめながら、それでも歩みは進み続ける。
くまきちは頭のなかでうーんと悩み、ようやく答えをひねり出したかのように口を開いた。


「んー…あれだ!フリーターってやつだぜ!」


「フリーター?!…えぇ、だってお前あんなに出来る奴だったじゃん。」


「おいおい、勉強が出来るとか、頭が良いとかそんなんでフリーター除外されるんだったらフリーターじゃない人間いっぱいいると思うさ。別に良いやろ?アルバイトは楽しいし、時間は貰えるし…何よりこの見た目で判断するやつが少ないからな〜」


「そうか。ま、くまきちが良いならいいんじゃないか?」


嘘だ。

くまきちなら絶対正社員になれるだけの能力はある。小学生のときしか知らないといえども、彼の能力はずばぬけていたのだから。なのにフリーターで止まっている理由は一つしか考えられなかった。それは彼の見た目。
何か嫌な気分になって眉をひそめると、くまきちは明るく笑って


「そうだよな!俺が良ければそれでいいさ。」


昔のように豪快に笑みをこぼした。
あ、やっと昔のくまきちを見出せた気がする。俺はそれに安心して胸を撫で下ろした。つられて目尻が緩み、笑い皺が出来た。


「あ、みっちゃん皺出来てるぜ。皺。」


ピタリとくまきちの指の腹が俺の目尻に触れた。少しひんやりするが、だんだんと暑くなってきて、「皺が増えるから触るなよ」と怒ったときにはすでにくまきちは俺の顔から指を離していた。


「んじゃ、俺反対側だから!またな!」


同じ方向に歩いていたはずなのに、突然真逆へと歩み始めたくまきちに変な感情を抱きつつも、まぁ方向を間違えたんだろうくらいにしか俺は思わなかった。いきなり現れては消える、それは俺とくまきちの会う時の儀式のようなものだった。






それからというもの、俺は散歩をするたびに…いや、正確に言えばあの道を通るたびにくまきちと出会うのだった。

あくる日は雨の降り注ぐ中紫陽花の色について話をし、あくる日は修学旅行で行った京都の紅葉に思いを馳せ、そしてあくる日はもう地元から離れていった友人を二人で思い、笑い、談笑するのだ。


「くまきち、ごめんな。」

「ん?何が?」

「俺さ、小学生のときは…すんごい子供だったなって思って。だから…」


謝っておきたかったんだ。

そう伝えようと開いた口は、くまきちの掌で押さえられていた。今は夏、もう少しで涼しい風に恋焦がれる季節が幕を開ける、そんな手前の月だった。


「みっちゃんはわかってないなー、そこんところ。いいかい?言ったらみっちゃんの自己満足さね。本当にごめんって思ってるなら、ずっと心の中でわだかまらせてるといいさ。」


しーっと、人差指を口の前で掲げるくまきちの表情は厭味ったらしいもので、俺はピトッと相手の口元を逆に塞いだ。

首を傾げてなんで自分の口が閉じられたのかわからないくまきちの為に、俺は自分の口を塞いでいた彼の手をゆっくり外し、言った。


「わかった、楽になろうとしてごめん、くまきち。」


少しずるさを含んだ謝罪の言葉は、情けない俺の表情と一緒に彼の瞳を占領した。くまきちは僅かにだけれど瞳を開き、「はは」と俺の掌に向かって息を漏らした。


「なぁんだ。わかってんじゃん、みっちゃん。」


もごもごと俺の手の中で喋る彼の言葉は、温もりを纏ったまま手首を伝い、心臓まで震わせるような響きだった。

みっちゃん、そう呼ばれる度、俺の意識が子供に戻っていくようで怖いような情けないような、けれどそれは確実に過去への愛おしい郷愁を呼び覚まされていく。


「あ、んじゃ俺反対側だから!またな!」


そうして今日も区切りのいいところで彼は反対側へと歩き始めるのだった。








俺は疑問を持たなかった。

どうしてくまきちに同じ時間、同じ場所で出会うのか。

どうして彼の姿が変わったのか。

どうして彼が




いつも反対側へと歩き出すのか。






それは当たり前の光景だった。
当たり前の光景だったのだけれど、ふいにおかしいと思うきっかけにも成る。あれ、なんでだろう。その疑問が浮かんだのはくまきちの影響で小学校の卒業アルバムを見返そうと考え、実際に埃をかぶっていた冊子を引っ張り出し、適当なページを開いた瞬間だった。



「え?」



アルバムの写真に、くまきちの姿は載っていなかった。

ペラリ、
ページをめくる。

無い。


またページをめくる。

ペラリ…やはり彼の姿は無い。


クラス全員の集合写真のところにも映っていなかった。


(どういうことだ?)


けれど、俺の中の記憶と思い出がくまきちが居たことを告げている。なのに現実に証拠として残っているものは一つもない。

不思議な体験に俺は母に「くまきち」という友人が小学生のときに居たか尋ねてみる。


けれど返ってきた答えは「えーっとねぇ、そんな子居たかしらねぇ…私は記憶にないんだけどねぇ…。」という、残酷なものだった。







翌週、また同じ道を通るとくまきちが木陰からサッと姿を現し、柔らかに微笑んで「みっちゃん」と俺を呼ぶ。

だけれども俺は今日に限って素直に喜べなかった。複雑な、形容しがたいわだかまりが俺の喉に突っかかっているようで、それは泣きだしそうな感覚にも似ていた。誰もが俺の言うことを信用してくれない。まるで世界に一人ぽっちになったような苦しさが胸を押し上げているのだった。


(なぁ、くまきち。写真も、お袋も、お前がいることを認めないんだよ。)


心の声とは裏腹に出たのはいつも通りの明るい挨拶だった。


「よっ」


こうして始まったいつも通りの会話に、くまきちはいつも通り笑っていた。俺も笑っていた。でも、どうしても引っかかってしまって。笑顔が上手く作れたのか常時心配な自分がいて。


「もうすぐ夏さね、緑が鮮やかになった。陽の光を浴びるために成長してるんだなぁ…。」


両手を空に向け、自然の恵みを全身に受けるように歩くくまきち。その指の隙間から洩れた光は彼の頬を白くする。眩しいなぁと呟いたくまきちの唇の色は、今に倒れてしまいそうなほど紫がかっていて。


「くまきち、病院いこうよ。顔色悪い。」


俺が彼の腕を掴み止まると、くまきちはぽつんと、


「ダメだよみっちゃんが止まっちゃ。みっちゃんは…歩いている途中なんだから。」


そう言って。

掴んだはずの腕は空を切り、くまきちの腕はいつの間にか俺の掌から抜けていた。くまきちは俺の尻を蹴飛ばすといつもの別れ道で、


「じゃ、俺はこっちだから」


そう言って、俺の来た道をなぞるように歩き直すのだった。











くまきちと同じ道、同じ場所で会うようになって三カ月が経った。

彼と話をするたび、

彼が止まるたび、

彼が歩き直すたび、

俺は彼のことを知っていく。


それは、痛みを伴うことでもあった。彼の言葉を聞けば聞くほど彼は俺の中で生きていた。

でも本当は違うんだと、周囲は俺に語った。

俺はくまきちと話をするなかで、本当の現実を悟っていた。その差に俺は何度も喉が締めつけられた。目がしらが熱くなり、泣きたくなった。
くまきちは絶対にあの道、あの距離から外側を俺と共に歩こうとはしなかった。それはまるで、彼の世界と俺の世界の重なりがそこしかないのだと突き付けられているようで。

俺はどうにか彼を、世界の外側である俺の世界へ連れ込めないものかと考えたけれど…どうあがいても難しい話だった。
それは生と死を超越するような話なのだから。


苦しかった。
俺はその道を歩くことをやめてしまいたいくらい辛かった。

だって歩けば歩くほど彼の生に触れ、彼との思い出は溢れ出し、俺一人で止められるような量ではなかったから。

零れないように思い出を抱えるのは、泣かないように胸を締め付けるのは、俺が生きているから。

どうしてこんなに辛いのか。
それは至極単純な話で、もっとも残酷な事実だった。





俺は生きている。
そして、
彼は死んでいる。





考えてみれば、予兆はあった。だって彼との記憶だけがこの世界でぽっかりと抜けていたのだから。恐らくたまたま俺がひっかかっただけなのだろう。偶然くまきちの記憶の欠片を拾ってしまったのだ。

そうして繋がった俺と彼の世界は、あの道のあの距離だけリンクした。


(はは…なんつー偶然だよ…)


でも、それを奇跡と呼ぶ気には到底なれなかった。こんな苦しい奇跡があるなら、俺は偶然なんてものはいらないとも思った。









夏真っ盛り、蝉は命を削りながら声を上げ、木々は自らの生を示すよう葉を茂らせた。この日出会ったくまきちの雰囲気はいつもと違っていて、俺は不思議なことに「あ、今日で最後かもしれない」なんて肌で感じていた。

感じたのに、その日はいつもよりもいつも通りの俺がいた。


「最近は水ようかんが旨く感じる季節さね。俺も食べたいなぁ…。」


両手を頭の後ろで組みながら、いつものように空を見上げて言うくまきちに、俺は鞄から二つの水ようかんを取り出して言った。


「これさ、今道端に座って食べない?涼めるよ。」


俺が狙ったかのように水ようかんを出してきて驚いたのか、目をまんまるく開くくまきち。

ああ、この表情も今日で見収めか…なんて感傷と温もりが心を満たした。


「前も言ったと思うけど、みっちゃんが止まっちゃだめだよ。みっちゃんは歩いて…

「今日だけだから。」


彼の声を遮るよう、語気を荒げて強く言った。


今日だけだ。


今日だけだから、許してくれ。

じゃないと俺、





泣いてしまいそうなんだ。








「今日だけ。ね?」

笑って言った俺の言葉にくまきちは頷くだけした。道の脇に移動し、二人は初めて一緒に隣り合って座った。これが最後になることも俺は知っていたけれど、今はただくまきちと二人でゆっくり水ようかんを味わいたかった。


太陽の光を反射した水ようかんは冷たかった。備え付けのスプーンを取り、折り畳み式のを開くとくまきちは「おお!」と嬉しそうに笑った。フタを同時に開け、いただきますと唱えてから一口水ようかんを食べると、俺達は同時に「うまい!」と言っていた。


「うまいね。水ようかんなんて久しぶりに食べたなぁ…みっちゃんはいつも水ようかん持ち歩いてるん?」

「いや、そんなわけないだろ!今日だけ特別だよ。」

「特別かぁ…いい響きだ。」


水ようかんを食べながら、俺達は今までの話をなぞるように声を交わした。小学生のときのこと、中学の時のこと、高校のときのこと、大学、今、そして


これからのこと。


死んでいるから未来が無いなんて、思いたくなかったんだ。だから俺は過去だけじゃなくて、くまきちの未来を尋ねた。

くまきちは困ったように顔を屈めて、「どうしようかね、これから」と弱々しい声で言った。俺は答えた。


「俺は辛いことも苦しいことも全部抱えて幸せになってやる。くまきちは?」


すると、くまきちは「そっか、そうだよなぁ…」と納得するように、


「俺も全部抱えて幸せになるわ。ま、フリーターだけどな!」


歯を見せて笑うくまきちに俺は安心して、空を仰いだ。
涙がこぼれそうで、でもしょっぱいのはようかんに似合わないから。


仰いで、目を閉じて、くまきちが隣にいる今の全てを受け取ろうとした。



過ぎ去る風の香り、
葉の陰る夏の木漏れ日、

揺れる陽炎に交る彼の熱、
耳を伝う響き、



声、



そのざわめきと郷愁、
刹那の時間、


広がり重なった世界、
その端と端を結ぶ俺と彼。


縦横無尽に駆け巡る思い出、
収束されていく距離、


道の幅、

歩いた数、





そうして。




彼と離れて行く感覚。







はっとして、何もかもが俺の体を通り抜けた。
かっさらっていくような、力強くも虚無を残す風だった。



ザァァアッッ



俺の代わりに、俺の世界が泣いてくれている。
そう思わせるような風のうなり声だった。










そうして水ようかんも食べ終わり、俺とくまきちは再び歩き出す。
いつも通り、いつものように。

別れる場所に辿りついたのも、いつも通り。
何も変わらないような、このままずっと続きそうな、そんな空間なのに。


「あっついさね。んじゃ、俺はこっちだから。」


別れは唐突にやってくる。

でも、俺はくまきちに教えてもらったんだ。

変わらないことなんて、ない。
だから変わっていくための全てを受け入れて進む。


それが、「歩く」ってことなんじゃないかなって。



「あ、くまきち。」

「ん?」


不思議そうに俺をみつめ返したくまきちに、俺はしょうがないなぁって笑みを向けた。

そう、これが最後。



「今日は俺、ここでくまきちが歩いていくのを見送るよ。」


「…へぇ、珍しい風の吹きまわしだな。どしたん?」


「ちゃんと歩いて進んでるくまきちを、見てみたくなっただけだよ」


「ははっ、へんなの。」


くまきちは軽く笑った後、


「それじゃみっちゃん。」


手を上げると笑顔で「ばいばい」と俺に伝えた。


「ああ、またな!」



そう答えた俺自身が「また」なんてことが無いのを知っていた。けれども、そう願わずにはいられなかった。



…俺の世界と彼の世界が離れて行くのがわかる。

寂しい。

くまきち、俺は今無性に寂しいんだ。



でも、歩いていかなきゃいけないから。










俺が見ているなか、くまきちは十歩歩いてみせた。


そうして次の一歩を踏み出そうと足を挙げたところで、


彼の姿は消えた。




ザァァアッッ




俺は彼が消えたのをしっかり見届けた後、
彼の進んだ道へ、くるりと背を向けた。


ただ右手に持ったままの、二つ重ねた水ようかんの容器だけが。
俺とくまきちの別れをこの世界に残してくれているようで。






俺は右手でそれを力強く握りしめ、

瞼をぎゅうと閉じ、

そして緩やかに開く。



再び瞳に映る俺の世界を見つめ直すと、




俺は静かに駅への道を

歩き始めたのだった。











『背を向けて、歩く僕らの。』





















終わり。
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2011/7/6