「あのさ、もう…こんなことはやめて家に帰ろうよ。君も疲れてきただろうから…」 自分のこめかみに突き付けられているのは銃口だった。その先で面倒そうに外の様子を伺っている彼は、ハァと溜息をつくと恋人に語りかけるように俺の耳元へと囁いてきた。 「…耐え症のない警官だな。あと少しなんだし最後まで付き合えよ。」 ペロリと耳たぶを舐められ、俺は緊張と疲労からどっと汗が噴き出した。 口元を震わせて放ったやっとの一言は、今の状況を皮肉るもので、 「いや、その…警官の俺が立て篭もりの人質にとられてるとか笑っちゃうなぁ…。」 そう、本来俺は俺のような人質を救う立場なはずなのに。 今いる自分はなんとか生き延びようと必死にもがく一般人そのものだった。 『ジャックロックのご機嫌いかが?!』 ジャックロック、という名前を御存じだろうか。 大都市に現れては立て篭もり事件を発生させ身代金を要求、その全ての事件を成功させている凶悪犯の名前だ。 もちろん偽名であることはわかっている。けれども本名は、なんて問われれば「わからない」というのが現状。彼自身が「俺のことはジャックロックとでも呼べば?」なんて適当に答えるものだから、周囲のマスコミも反応してしまって、今じゃその名前を言えば一発でわかる。 ところで話を現在に戻そう。 俺はこの街に配属されてきたばかりの警官だ。いや、今日は警官ではない。普通に休みの日だったので給料を降ろしてなんか旨いものでも食いにいこうか、ってな話を同僚としていたときだった。同僚二人を外に待たせて、俺は一人銀行に入り金を降ろしにかかる。すると、 パンッ 乾いた拍手音の、鼓膜を貫く響きが耳をつんざいた。 職業柄、その音には敏感で出てきた万札を財布に入れながらも聞こえてきた方向を見やると、そこにはこれから体育祭でも始めるぞーなんて軽く言いそうな兄ちゃんが立っていた。 女性から見れば魅力的な感じで、視線を走らせただけでいやらしい感覚が背筋を這うような美しい青年がYシャツに腰巻のエプロン、カフェ店員のズボンなんて井出達で右手に銃を持っていた。俺からしてみれば銃を目に入れた瞬間凍りついたわけなんだが。 右手を天井に向け、一発撃ったらしい彼は、優しく丁寧に状況を説明した。 「こんにちは、紳士淑女のみなさん。俺の名前はジャックロック。ここまで言えばわかるよな?」 瞬時によぎるは連続立て篭もり事件の新聞記事だった。――Jack rock 英字で綴られた人名と耳から流れる呼び名が一致する。銀行内にいる全員がそうだったらしく、皆一様に体を強張らせていた。ちなみに、ジャックロックに防犯装置は通用しない。全て破られている…というよりかは破らされている。 人々は誰が言うまでもなく、両手を挙げ始めた。この立て篭もり事件が始まって以来、もしジャックロックに遭遇した場合の暗黙の了解を皆は知っている。 一つ、抵抗するような素振りは一切するな。 二つ、ただ冷静に彼に従え。 三つ、金が到着したら床に伏せろ。 抵抗する素振りを見せた人間は彼によって消される。殺されるのではない。文字通り消されるのだ。そして泣きわめいたり発狂する人間もそう。 三つ目の項目は、彼が立て篭もりから脱却するときの謎の爆風から身を守るためである。 「さて、もうわかってると思うけどさぁ。俺と出会っちゃった場合の三つの約束…守らなきゃどうなってもしらないぜ。ガキだろうが年寄りだろうが関係ない。」 彼は人質を一か所に集めると、手際良く縄を互いに掛けさせ始めた。俺もそそくさと移動し人質のフリをする…いや、していたはずなのだが、 「あー、そこの兄さん。こっち来い。お前、今日の“羊”な。」 「え??羊って…なんだ?」 「金が手に入らなかった場合、真っ先に消される一番目の人質の名前。スケープゴートってなわけで、羊。」 「……勘弁してください。」 「勘弁するわけねぇだろ、ばかが。ほらこっち座ってよ、そうそう。」 素直に指示された椅子に座り込むと、ジャックロックは俺の横に座りこめかみに銃口を突き付けてきた。「ひぃっ」という声が俺ではなく、人質の中から聞こえると、彼は途端に不機嫌になる。 「あー、うざいな。別にこの兄さんが死のうがあんたらに関係ないだろ?黙っとけばいいんだって。」 冷たい視線で威嚇するジャックロックに、俺は警官として出来るだけの情報を引き出そうと話しかけようとするが、彼は面倒そうに明後日の方向を向いたままだった。 外で待っていた俺の同僚がドアを叩き始め、中にいる俺達に必死に声をかけてきた。様子が急にわからなくなったため不安になるのも無理ない。 しかし、それは逆に彼の神経を逆なでした。 「なんだぁ?このうっせー音楽。もちっと綺麗な音奏でたら?バスが安定してないって。」 ジャックロックが自身の背中に手を伸ばすと、どこに隠してあったのかオートのライフル銃を取りだした。確実に彼の背丈より大きいのに、なんて疑問は次の行動で文字通り吹っ飛んだ。 ズガンッ 彼の指により弾かれたトリガーは一つの激音を放ち、窓ガラスを破った。どうやら同僚の肩に当たったらしく、外から呻く声が聞こえる。俺は目だけを外に向け、彼らの無事を祈った。 それにしても驚くのは、座って適当に崩している姿勢から狙いを撃ち抜ける技量を、彼が持っているということだ。俺は思わず口から言葉を紡いでいた。 「立射姿勢も取ってないのに…」 すると彼はニヤリと笑い、持っていたライフルを再び背中に戻すと、他の人質にこう告げた。 「やっぱやめた。おい、お前ら。出てって良いぜ。今日の人質はこの兄さんだけにするからよ。ほら、出てった出てった。」 片手で邪魔そうに固まっていた人質達を払う動作をし、彼の表情は興味で溢れていた。それは否応なしに俺へ向けられていることについて誰も言うことはなく、解放された人質の俺以外全てが銀行の正面玄関を開け放ち、そしてそれを完全に閉め切った。 俺は一人だけ残るなんて笑えない状況になりつつも、一般人が人質になるよりかはましか…なんて悠長な考えをぼーっと抱えこんでいた。しかし、 それはどうやら間違いだったらしい。 「おい兄さん。あんた警官だろ?」 警官だという証拠品を俺は見せた覚えが無い。なのに言い当てられた事実に動揺する。けれどここでそれを表面に出したら彼の思うツボだ。 俺は冷静を装い「ただの会社員だよ。」と言ったのだけれど、 「嘘つくなよ、俺知ってるんだぜ?警官のやつらは各々何かしらのマークを体に刻んでることくらいさ。」 すると彼は「動くな」と念を押した後俺を立たせ、俺のズボンとパンツ同時に手を引っ掛け、下へと降ろした。俺はなんつー変態野郎だ、なんて思ったのも束の間。自分が何をされようとしているか気付いたときには時既に遅し。 俺の左腰骨の下に刻まれた赤文字を見られてしまった。 「へぇ…警察特有の暗号で真名が書かれてるってわけか。お前…どんだけ正義の奴隷になりたいの?馬鹿なの?」 笑う彼の舌はいたずらっこのように伸ばされ、べーっと俺にその存在を見せつけると、 ペロリ 俺に刻まれた文字の上を丁寧に、なぞるよう舐めた。 「うぁ…金が目的なんじゃ…」 「ほぁ?あーんー、そうそう金が目的。んでも」 文字から舌を離し、数回もぐもぐと口を動かした彼から放たれた言葉は俺の喉を締めつけた。 「こんなおもちゃ放っておけっての?無理無理! なぁ、シュス?」 本当の名を呼ばれた途端、体中の細胞がざわめき「彼が俺の支配者だ」と告げ始める。通常なら暗号で刻まれているこの真の名前は、暗号の解き方のわかる警察上官にしかわからないはずなのに。 何故彼は俺の真の名前がわかったのだろうか。 「…いやーまじで警察の犬だな、兄さん。ほら吠えてみろよ。」 「……う、ぐぅ……っ」 「シュス、吠えろ。」 「わんっ!」 「ははは!上出来だ。これで銃口向けとかなくてもいいだろ。今回は兄さんのおかげで楽にいきそうだぜ。」 「…俺は大変迷惑してるけどな。」 この世界では真の名前を握られることは死を意味している。というのも、名前は名を持つものを自由にできる権限を有しているからだ。 それは生きているものにならば適用される。人間から小さい蟻一匹に至るまで全てには名前があり、他者に知られてしまうと簡単に支配される。 では何故、警官である俺が体に己の弱点と言うべきものを刻み込んだのか。それは警察に入るときの通過儀礼であり、己の信念の有りようでもある。 『正義に支配されよ』 これは現在の警察の信念であり、軸であり、全てを表す言葉だ。この柱に従い、身を捧げたことを証明するため、警官は各々の体に何かしらのマークを刻み込む。 たまたま俺の場合はそれが、真名だっただけなのだ。他につぎ込める…いわゆる保険ってものが何もなかったから。 「ジャックは本名じゃないんだろ?」 銃口を外された俺は真名を握られたため、抵抗するのをやめた。逆に全てを握られたことで楽になり、溜息を吐く。軽々しく質問をすると、彼は眉をしかめながらも俺の顎に手を伸ばし、犬を可愛がるような素振りを見せてきた。 「もちろん本名じゃないね。自らバラす馬鹿じゃないしな。お手。」 右手は緩やかに彼の掌へと移動した。俺は自らの状況よりも、段々外の状況が気になってきて、色々命令される手や足の行動とは裏腹に顔を正面ドアへと向けていた。 ずっとそっぽを向いている俺の反応がつまらなくなったのか、彼は俺にこんな命令を下してきた。 「お前の身の上話を余すところなく教えろよ。」 「一応前置きを入れておくと、つまらないと思う。それでも抵抗出来ないから喋ると…」 警官になろうと思うきっかけは簡単なものだった。 十歳のときに両親が強盗に殺されたから。親のいない中、生きるための糧として復讐を選んだ俺の答えは正義の犬に成り果てること。けれどこの世界の警官は高給取り、しかも入るのに多額の…いわゆる裏金が必要だ。 「警察に入るために金を溜めてたんだ。でも全部取られてね。汚い仕事で稼いだ金を、綺麗な仕事の奴らにさ。」 「へー。ちなみに両親が亡くなってからはどうやって生きてきたんだ?」 「…あー…これオフレコなんだがな、体売りながら薬の運び屋やってた。」 「はい?」 「だから…体売りながら薬の運び屋。男の上で喘いでしゃぶってとか、女の場合はなるべくキス多めにしたり。薬運ぶときはいっつもヒヤヒヤしてたな。警察に見つかったら俺の進路グッバイだし。」 「おい、よく足つかなかったな。つーか俺の立て篭もりより面白そうじゃん兄さんの話。」 俺の手で遊んでいた彼はワクワクした表情で俺をみつめていた。 「もっと深くて気持ち悪い話…聞かせろよ。」 趣味の悪いやつだなぁなんて思いつつも、逆らえない言葉に脳がスラスラと思い出を引っ張り出してくる。 「一度、友達ってのを作ったことがあってな。そいつも俺と同じように体売ってるって言うから、客を紹介してやったんだ。そしたら『本当にやってたのかよ』なんてとぼけたこと言いながら俺を殴ってきたんだ。客にも殴りかかろうとするからさ、とにかく金づるが暴力沙汰で無くなるのやだったし、俺が全部殴られてやったんだ。」 喉を撫でられながら、話を続ける。 「それまで俺はその友達ってやつに食べ物とか、金とか、ちょこちょこやってたわけ。なんていうのかな、綺麗な世界の人間と繋がってないと不安だったんだろうな。でも結局そいつも汚かったってわけだ。」 「綺麗な人間なんていないだろ。つーか兄さん、話はしょったな。殴られただけで終わらないはずじゃね?」 「まぁ…そこらへんは許してくれよ。」 困ったように笑う俺に負けたのか、彼はしょうがないなぁなんて顔で命令してきた。 「ほら、舐めろ。」 俺の口元に指を差し出し、それを俺は口の中に含んだ。 しゃがんだ姿勢で彼の指を舐めていると、必然的に彼のズボンの裾を握りバランスを取った。 「んぶ…ちゅっ、…んはっ、はっ、はぅ…ちゅくっ」 犬のように指を舐める自分の置かれている状況が過去の状況と重なり、一種の陶酔状態に陥った。やばい、喉が渇く。目の前の男を渇望する。久しぶりの性交の兆しに、身を震わせた。 けれど、 「なぁ兄さん。あんたって恋したこと…ないだろ。」 そう聞かれ、一瞬で体から血の気が引いた。命令が途切れたおかげで彼の指から口を外すが、逆に寂しく感じてしまう。 わしゃわしゃと髪の毛を撫でられ、本当に犬のようだなぁなんてぼんやりしていたら、 彼がぽつんと呟いた。 「…寂しいな。それって。」 俺の見上げた先には何も見えていない彼の瞳があった。寂しい、その言葉を噛みしめるような、突き刺すような、不思議な視線に俺は委縮した。 「そういう君は恋したことあるわけ?」 俺は問いながら涎で濡れた彼の指を引き寄せ甘噛みする。自分の気持ちの混乱を悟られないようにすることで精いっぱいだった。そう、俺は恋なんてものをしたことはない。変な言い方をすれば、正義に恋してるんだ。人間なんて相手にならない。 すると彼は俺の口内をくすぐるように人差指を動かした。 「ないな。あえて言えば…」 彼は笑いながら片手でポケットから一枚の紙幣を取り出すと、ためらうことなく口に挟み、むしゃむしゃと食み始めた。 「俺の恋人はお金かな。食欲も性欲も満たしてくれる唯一の物。人間なんかより遥かに相手になるだろ?ほら、兄さんも食べてみる?」 普通、紙幣を食べる人間はいないのだと言いたくなったのだが、食べているときの彼の表情は今までで一番安らいでいたので俺はただ首を横に振った。 立ち上がり外を見ると、警官の配置、突入経路の確保は終わったらしく、後はジャックロックとの交渉を始めるだけらしい。俺は服の裾を払い埃を取ると改めてジャックロックと呼ばれる彼を見た。 お金に恋しているというのは本当らしく、幸せそうに頬をふくらます彼は立て篭もりの時間の中で一番年相応に見えた。 「君が金に恋してるように、俺は正義に恋してるんだ。正義に触れられるなら何をしても快感になる。それが例え犯罪と他者から言われようが、もう一方が正義と言ってくれるなら…俺は何でもやるだろうね。」 「つまり…?」 ジャックロックはこの後に俺がとる行動を予測済みのようだった。目を細めながら楽しい遊びが待っているように紙幣を口端に噛みながら微笑する彼。 俺は彼を見据えながら言った。 「ジャックロックを殺してしまおう、全ては正義のために、なんてことも…ありだろ!」 パァンッ 足に隠していた小型拳銃を一瞬のうちに取り出し、構え、弾を放つ。ジャックロックの肩に命中したものの、同時に放たれた銃弾は俺の右足を撃ち抜いた。上手いなぁと感心しながらも、やっぱり足を撃っておくべきだったかと悩みなおす。カウンターの下に転がり込み、歯に仕込んだスイッチで外の警官へ突入の合図を送る。 銃声と合図の二つが重なり、また警察の介入によって場は盛り上がりを見せた。肩から血を流すジャックロックはニヤニヤしたままライフルを反対側の肩にかけ、紙幣を噛み続けている。 入口も裏口も警察が包囲していて、逃げられるような状況ではないだろうと誰もが頭の中で考えていた。 けれど、ジャックロック本人は違うようで、 「んぐ…久しぶりの展開…久しぶりの傷…いいぜ。兄さんやっぱ面白いんじゃねぇの?」 ごくん、と金を飲み込み周囲に笑みを振りまくと、俺は唇をなめた彼に頭の中で命令された。シュス、こっちに来い。別れの挨拶をしようぜ?なんて呟かれ、俺はカウンター横の床から顔だけを覗かせた。 警官達は動かない。というより動けない。ジャックロックの能力がわかっていないこの状況では、何もせず俺に情報を引き出させた方が賢明だからだ。 そうして彼は俺の髪の毛を引っ張り顔を表に向けると、丁寧で滑らかな口づけをしてきた。 「…ぅっ…ん?」 舌が口の中で蠢き、なにやら紙の端切れのようなものを渡された。ぺたりとくっ付いて離れないそれを剥がそうと舌で躍起になっていると、彼は唇をゆるりと離し俺の耳を舐め囁いた。 「それ、俺がいなくなった後に一人で見ろよ。」 俺から彼は離れると、周囲の人間に言い放った。 「さぁて、今日はこのへんにしといてやるか。金は手に入らなかったけど面白かったし、…上々か。んじゃな。」 銃を持った手を振ると、辺りが急に暗くなった。それは光の無い、まるでブラックホールの中に漂っているような異様の空間で、突如爆風が場にいた全員に襲いかかった。 5秒後光が差し込んだときにはジャックロックはその場から消え去っていた。 翌日、結果的に休みを潰された俺と同僚は互いに傷をなめ合うような言動をしつつ仕事に追われていた。撃たれた場所は案外浅くて、すぐさま現場に復帰した。俺はジャックロックに口移しで貰った紙きれを上官に伝えることなく、手帳に挟んだ。 書いてあった内容は、 「今度の土曜、16時に時計広場で」 まるで恋人の待ち合わせのような文面に苦笑しつつ、真名を握られたこちらとしては逆らえないか、なんて言いわけをつけて会いに行こうと考えた。 正義に恋してる俺と、金に恋してる彼。 この場合どちらが正しいのだろうか、どちらが正義なのだろうか。 考えても見つからない答えを探るよう、俺は再びジャックロックと言葉を交わす。 これはひねくれものの俺と彼が、初めて人間に恋をする ほんとにほんとの 最初の話。 終り。top 2011/7/5 |