傷
タルタロスの一室から一歩出て、ドアが閉じると同時、ジェイドはらしくもなく重い息を吐いた。
無意識にズレてもいない眼鏡を押し上げて、必然的に視界に入った自分の手の紅い色に動きを止める。
すぐにリスティアータの血だと理解したが、
「………」
「ジェイド」
「!…ガイですか。そちらの方は終わりましたか?」
その手を無言で握り締めたジェイドに、幼い少年(確かリスティアータの傍にいた少年だ)を連れたガイが声を掛けてきた。
外(、)の事を任せていた彼が此処にいる理由などを考えつつジェイドが問えば、ガイは辛そうに眉を寄せてひとつ頷く。
「一通りの説明は…終わった。今は何部屋かに別れて休んでる。それで、リスティアータは………どうなんだ?」
「………」
子供の存在を考えてか、遠回しに訊くガイに、ジェイドが答えようとした時、微かな音を立ててドアが開き、中からティアが出てきた。
開いたすぐ先にいるジェイドとガイに一瞬驚きつつも、静かにドアを閉める。
「ティア」
ガイの言わんとする事を察し、ティアは頷きを返した。
「傷は全て癒やしたし、状態も大分落ち着いているわ。今はナタリアが付いているから」
「……本当?」
少年の問い掛けに、ティアは漸く子供の存在に気づく。
何故ここに子供が?、というティアの疑問を察知したガイが、そういえばと説明する。
「この子…ジョンって言うらしいんだが、リスティアータの事をえらく心配してたもんだから連れて来たんだ」
「そう」
ティアはジョンに視線を合わせるように膝を折った。
「リスティアータ様なら大丈夫よ。今はお休みしているわ」
「本当?お姉ちゃん、死んじゃわない?」
「!、ええ……良ければ、一緒にいてあげてくれるかしら?」
「うんっ!」
あまり子供が得意に見えないティアだが、戸惑いながらもジョンの手を引いて再び部屋に入っていく。
それを見送って、視線を閉じたドアからジェイドに移したガイが訊く。
子供の手前では、訊けなかった事。
「それで、本当のとこ……どうなんだ?」
「……暫くは、保つでしょう」
「どういう意味だ?」
眼鏡を押し上げながら答えたジェイドに、ガイはさっと顔をしかめた。
「両手から両腕、肩にかけての裂傷が酷い。主要な血管の損傷はとりあえず見られませんでしたし、首や内臓器官に至らずに済んでるようですから、傷が塞がれば安定する筈です。しかし……、」
「しかし、何だ?」
一瞬、ジェイドは乾いた血に汚れた自分の手を握る。
「……見た限りでも、かなり出血しています。輸血するにしろ、早くきちんとした医者に診せるべきです」
そのどこか淡々とした言葉は、却ってガイの不安を煽る。
まだ安心は出来ないのだと、そう悟った。
ぼんやりと、自分が目を開いた事を自覚した。
未だ虚ろな意識のフィエラが真っ先に見たのは、無機質な、天井。
タルタロスと似ているが、恐らく違う。
無機質なのに、ほんの微かに生活感のようなものが感じられた気がした。
ゆっくりと首を巡らせば、頬にふんわりと柔らかな何かが触れる。
「にぅ…」
あぁ、少し前によく似た事があった、と、妙な既視感を感じながら、ゆっくりと手を上げてクロを撫でようとする。
しかし、その手は中途半端な位置で止まる。
目に留まったのは、腕に刺さった紅い色の液体が流れる点滴、ではない。
指先から、見える限りでは肘にかけてハッキリと残る、無数の亀裂。
傷はしっかりと塞がり、包帯もされていない。
完治しても尚、消える事の叶わなかった………………傷痕。
痛みも、苦しみも、何一つとして覚えてはいない。
いや、頭の片隅に記憶されているのかもしれないが、フィエラ自身の自覚としては、皆無に等しかった。
そのままであれば、何事も無かったのかもしれないと、頭を掠めるくらいはしたかもしれないが、
「…………」
フィエラは暫くの間、自らの手をじっと見つめ続けていた。
執筆 20090502
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