〜 歩み寄り 〜
―――カズマさん、おはようございます。今日もいいお天気ですね。
―――いいんですよ。お掃除はもう、趣味みたいなものですので。
―――あ、大丈夫です。私がやりますよ。
「…………」
生活を共にし始めて、はや1週間。せっかくの休日だというのに、忙しなく動き回って部屋の隅から隅までを掃除しているユリアの背中を見て、亜双義は仕事机に腰掛けながら書類を片手に考え込んだ。メイド業を辞めてもらったはずなのに、服装こそ違えどやっていることはメイドの時と変わらず、「やらなくていい」と言ってもユリアは落ち着かない様子で「動いていないと死ぬ」と言っていたのも記憶に新しい。冬のロンドンの晴れ渡った空が見える窓から部屋の空気を入れ替えるように風が入り込んで、開いたままで放置していた書物のページがパラパラと捲られた。
「ユリア」
「はい?」
冷水に素手を突っ込んで雑巾を絞っていたユリアが、顔だけを亜双義に向けた。
「ちょっと待ってくださいね」
絞り終わった雑巾をバケツの縁にひっかけて、濡れた手をエプロンの裾で拭うユリア。その手は真っ赤に染まっている。亜双義は立ち上がって、近付いてきたユリアのその手を取り、部屋の中央にあるソファへ誘導した。
「どうしたのですか?難しい顔をされて」
手を繋いだまま隣り合って座らせられたユリアが、亜双義の顔を覗き込んだ。冷水によって体温を奪われた手を温めるように握り込んだ亜双義が、ユリアの目を真っ直ぐ見つめた。
「提案があります。ふたつほど」
「はい」
「…オレたち、親しい関係になってからもう1ヶ月です。なのにまだ、丁寧語が外れていません」
「……言われてみればそうですね。崩してくださっていいのですよ」
ユリアはにこりと微笑んだ。しかし、亜双義は首を振った。
「ユリアも、です。丁寧語をなくす…それがひとつ目の提案です」
「うーん…。でも、私のは癖みたいなものですから……」
亜双義の視線から逃げるように目を逸らしたユリアが、繋がれてないほうの手を顎に当てた。亜双義はそれを聞いて気付いたことがあったのか、深く息を吸った。
「異議あり!」
「は…っ、はいっ!?」
凄むように言った亜双義に驚いて、ユリアが瞬きを繰り返しながら振り向いた。
「数ヶ月前、成歩堂たちを日本へ見送りした際。あなたは御琴羽法務助士に向かって、丁寧語を外して話しかけていた記憶があります。…それだけではありません。つい先日、ミス・ワトソンにも丁寧語じゃありませんでした。貴女は今、自身の丁寧語を“癖”だと言いましたね」
「あっ……」
「親しい間柄であっても、“癖”だから丁寧語を外せない。これは……明らかに矛盾しています!」
「ううっ……」
亜双義がまっすぐにユリアを見つめる。心当たりがありすぎるといった様子で、ユリアが苦悶の表情を見せながら瞼を伏せた。亜双義は繋いでいた手にもう片方の手を置いて、優しく包み込んだ。
「いかがですか、ユリア」
「……え、えーっと、それは……」
ユリアは一瞬亜双義を見て、それからまた視線を逸らした。
「……なんだか、恥ずかしくて……丁寧語のほうが話しやすい気がするのです」
「…オレは、“壁”を感じて寂しい」
亜双義が寂しそうに眉を下げる。ユリアは、自分は亜双義のその表情に弱い、と最近ようやく気付いて、その顔を見る度に喉の多くが詰まったように息苦しくなっていた。その顔をやめさせたくて、ユリアは重ねられた亜双義の手へ更に自分の手を重ねた。
「…今すぐに崩すことは難しいかもしれないのですが。努力はします…」
それを聞いて、亜双義がユリアを上目で見つめた。
「では、ユリア。せめて今日一日だけ、丁寧語を無くしてみるのは…?」
「…え。…わ、わかりま……わかった。やってみ…る」
もごもごと難しそうに口を開くユリアを見て、ふっと笑う。
「愛しいな」
「い…!?」
ぽっ、と音が立ちそうなくらい突然頬を赤らめたユリアを見ながら、亜双義は重ねられた手を引いて、両手でユリアの手を包み込んだ。
「あと、もうひとつ。もっとオレに甘えてほしい」
「甘える…?」
そうだ、と亜双義がうなずいた。
「今日は休みだぞ、ユリア。メイドを仕事が板についてしまっていることは理解しているがな」
「…………」
亜双義の言葉をよそに、ユリアは考え込むように目を逸らした。
「そもそも、ユリアは他人に甘えなさすぎだ。オレに限らず、もっと周りを頼って……」
そのとき、亜双義の思考が止まる。重ねられた手からするりと手を抜いたユリアが、亜双義に向かって腕を伸ばした。
「…………」
「…………」
ぽかん、と口を開いた亜双義を見て、ユリアは思わず手を引っ込める。
「……えっ、甘えるってそういう意味じゃない?」
「……ユリア」
「ごめんなさい!わ、わ、忘れて!」
「無理だ」
顔を真っ赤にして慌てているユリアの引っ込んだ手を引く。亜双義は体を寄せてユリアのその体をソファの上で抱きしめた。 体を引き寄せられたユリアは固まったまま、ふわりと香った亜双義の髪の香りに翻弄されていた。
「……愛しい」
「…うう。…恥ずかしい…穴があったら入りたいわ……」
「ユリア」
「う……うん?」
亜双義はユリアの頭をゆっくりと撫でて、髪にキスをした。
「愛しいな」
「やっ…やめてよ、もう……」
ユリアは亜双義の背中に腕をまわして、逃げるようにその肩口に顔を埋めた。
「いつでも、そんなふうに甘えてくれていいぞ」
「……考えとく」
亜双義は体を離して、ユリアに向き合った。顔を隠す場所を失ったユリアが気まずそうに視線を上げた。亜双義がユリアの頬に手を添えて、口元に弧を描く。
ゆっくりと近付いてくる亜双義を見て意図を汲んだユリアは、瞳を揺らしながら、静かに瞼を伏せた。
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