突風と大雨を受けた窓ガラスが、ガタガタと音を立てて揺れながら水滴を弾き飛ばしている。
ここはベイカー街の221B。かの名探偵が住まう部屋の一室で、マノンは優しい香りが立つ紅茶を喉に流し込んでいた。
「いつ、止むのかな」
時計の針は深夜2時を回ろうとしている。窓の外はちょっとした嵐のような騒ぎだ。風が窓ガラスを刺激するたびに、マノンは不安な気持ち襲われて眠ることが出来ない。この家の家主であるホームズとアイリスを起こさないよう、ゆっくりとこの客間へやってきたのはつい先刻のことで、少しでも恐怖より眠気が勝るように温かい紅茶を淹れたのである。
「眠れないのかい?」
茶器同士の繊細な音を立てないように細心の注意を払っていた所へ、突如として男の声が降りそそぐ。マノンは肩を跳ねさせて息を呑みながら反射的にそちらを振り向き、入口のドアからふわふわの頭だけを覗かせたホームズを見て、静かにため息を吐いた。
「ああ…ごめんね、シャーロック。起こしちゃった?」
ティーカップをテーブルにあるソーサーに置いた状態で固まっていたマノンが体を起こしている間に、ホームズが部屋へと滑り込んでくる。音を最小限にするため、ゆっくりとした動作でドアを後ろ手に閉めたホームズ。彼も、最愛の娘であるアイリスに気をつかっているのだろう。
「眠れなかった、というのが正解かな。今日は風が強い」
どこから取り出したのか、シンプルな柄の入った紺色の肩掛けを広げたホームズがマノンに近付き、上半身を包み込むようようにその布を纏わせた。石鹸のような優しい香りがふわりと鼻を掠める。
ありがとう、とマノンが笑顔で礼を述べると、ホームズもつられるように笑って、それから暖炉へと足を向けた。
「今夜は冷えるね。僕も紅茶をいただこうかな」
「もちろん淹れるけど…本当に眠らなくて平気?明日も朝からお仕事なのでしょう?」
火をくべるためにしゃがみ込んだホームズの背中に、マノンが心配そうに問いかける。火種を新しい薪の中へ放り込んで、燃え上がっていく様子を見ているホームズ。その背後でマノンは、トレーに伏せられて置かれたティーカップを手に取った。
「眠れないんだ。風も強いし、雨だって酷い。こんな日は、嫌なことを思い出してしまう。こう見えて、かなり怖がりな男なんだよ」
「…………」
ホームズが眠れない理由。その全てが、マノンが眠れない理由に該当している。ポットから湯気のたつ温かい紅茶を注ぎ、ソーサーをそっと自分の隣の席へ移動させると、助かるよ、という声と共にホームズがすぐ横へと腰掛けた。
「無理に付き合わなくても、いいのよ?」
「……無理をしているように見える?」
ティーカップを持ち上げて香りを楽しんでいたホームズが言った。ひと口飲んで、いい味だ、と感嘆の声を漏らしている。
それをじっと見ていたマノンが、ある事に気が付いた。ホームズの目の下に、寝不足で出来たのであろう、うっすらと、本当に近くで見ないとわからないくらい微かだが、隈を見つけてしまったのだ。今日だって、忙しなく動き回っていた。本当は眠くて仕方ないのではないだろうか。それなのに気を遣って、眠れない自分のために明るく振る舞い、こうして傍に居てくれている。
当たり前のような顔をしているが、少なくとも自分より多忙の身である彼に気を遣わせてしまったことと、その優しさに胸をうたれ、マノンは表情を歪めた。
視線に気付いたホームズが、ティーカップを置いて、ゆっくりとマノンの肩を抱き寄せる。ホームズの胸に体を預けたマノンは、テーブルの上に置かれたふたり分の紅茶をぼんやりと見つめながら、深く息を吐いた。
「優しいね、シャーロック。……大好き」
「…僕もだよ、マノン」
火のついた暖炉が少しずつ部屋を暖かくしていく。すぐ近くで聞こえるホームズの心音と、パチパチと音を立てる暖炉の火を合図にしたかのように、マノンは安心感に満たされて重くなった瞼をおろした。本当に眠ってしまいそうだ。
そんな様子のマノンを見てホームズが愛おしげに髪を梳き、その頭へキスを落としたあと、静かに囁いた。
ゆっくりおやすみ
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