図書室の一角に夕暮れの赤みがかかった陽が差し、手元の書類にその光が落ちている。
亜双義は読み進めていた書類に一区切りがついたのを確認して、ふと顔を上げた。疲れ目が起こっているのか、見えている景色が微かに霞む。机上に置いていた左手で目頭と眉間、眉あたりを念入りに揉みほぐし、ゆっくりと目をつむる。気持ちがいい、と思えるときは大体根を詰めすぎている証拠だ。小さく息を吐いて目を開くと、正面から人の気配がして反射的にそちらに意識が向いた。
「一真くん、…隣いい?」
静まり返っている図書室に、控えめな声が反響する。亜双義は持ち上げていた資料を机上に置いて、広げたままだった書類らを手元にかき集めた。
「……構わない」
よかった、と笑う彼女。席はたくさん空いているのに、わざわざ隣に座りたいと申し出たのは、最近になってよく話すようになったからだろうか。亜双義は書類がごっちゃにならないよう、頁ごとにまとめながら隣の席の椅子を引いた美久璃を見上げた。
「ここに来るなんて珍しいな。英語学の課題でもやるのか?」
「よくわかったね」
美久璃は一瞬驚いた顔をしてから、音も立てずに着席した。
美久璃と知り合ったのはついこの間のこと。同じ英語学で勉学に勤しんでいる親友の成歩堂伝いでよく話すようになり、3人で学食の机を囲んだりすることもある。
彼女はよく笑う人だ。亜双義と成歩堂の軽口や冗談を交えたいつも通りの会話に、よくクスクスと笑ってはその場を和ませることが多い。成歩堂が言うには、美久璃は“笑顔が愛らしい”のだという。確かにその通りだと思った。笑うのと同時に眉尻が下がるその笑顔は、人を惹きつける何かがある。
「……あの」
教本と参考書を開いて課題に向き合った美久璃が、万年筆を持ったまま亜双義を振り返った。
「私の顔、なにか付いてる?」
「…ああ、いや。すまない」
目が合って初めて、自分が美久璃に視線を奪われていたことに気がついた亜双義が慌てて手元に視線を移す。居心地が悪そうな、恥じらっているような表情を見せた美久璃は曖昧に笑って、課題へと再び向き合った気配がした。
最近はずっとこんな調子だ。無意識に美久璃を目で追っていて、無意識に見つめている。ふわふわとした温かみのある笑顔を見るたびに心拍数が上がるような、心の臓が締め付けられるような気持ちにさせられて、自制が出来ない。
(恋煩い、というものだろうな…)
初めて味わう、所謂“甘酸っぱい”という気持ち。戸惑わなかったと言えば嘘になるが、本人や成歩堂には隠し通せている気がする。成歩堂ももし、美久璃に惹かれているとしたら。親友も好いた人も、どちらも大事にしておきたいがために、この気持ばかりは心の奥底にしまっておきたい。しかし、この調子ではふたりに勘付かれてしまうのも時間の問題のような気がした。
「亜双義さん。……少し、よろしいかしら?」
考え込んでいると不意に、先程美久璃が現れた方向と同じような場所から声がかかって意識を持っていかれた。視線だけ上げた亜双義の視界に、見たことのない女生徒が映る。
「なんだろうか」
「話したいことがあるの。…こちらにいらしてもらっても?」
女生徒は亜双義ではなく、美久璃を一瞥して言い放つ。同じように視線を上げた美久璃は、どことなく悲しげに眉を寄せていた。
「…悪いが、大事な資料を明日までに頭へ叩き込まなくては…」
「すぐに終わるわ。お願い」
断ろうとした亜双義に言葉へかぶせるように女生徒が言った。亜双義は座ったまま、美久璃の様子を横目で伺い、それから小さくため息を吐いた。
「……わかった」
女生徒が輝かんばかりの笑顔を見せて、図書室の前で待っていると伝えると、足早にその場を立ち去っていった。
「大変だね」
「…やれやれだ」
誰が見ても無理をして笑っているような張り付いた笑顔。その意図は、亜双義にはわからなかった。だが、その笑顔を見ても心が高鳴ることはなく、むしろ、先の尖った鋭利な刃物で胸の奥を無慈悲に突き刺されているような感覚さえ覚える。
そんな鈍い痛みを感じつつも、亜双義は荷物をまとめる。ゆっくりと、亀が前進するために踏み出す一歩を形容するかのような動作で、本当にゆっくりと。ここで彼女が引き止めてくれたら、この場に留まるのに。だけど、彼女が止める理由はきっと何もない。淡い期待は儚く散って、空へと舞い上がっていった。
―――それから数刻の後。
女生徒がした話の内容は、自分に好意を寄せているだとか、仲良くしてほしいだとか、そんな浮ついた話だった。
想いを伝えられるのは、これで何度目だろうか。断るほうも相当な精神的負担がかかる。自分自身が何故そこまで人を惹きつけるのか、わからない。そんな話を成歩堂にしたら、複雑そうに眉を寄せていた。
「亜双義、美久璃さんのこと好きだろ」
「…な、なんだ、突然」
「見てりゃわかるよ。わかり易すぎるぞ、お前」
廊下を歩み進めていた足が止まる。成歩堂は亜双義を振り向いて、中途半端に足を止めた。そんなことを聞かれたのであれば、はっきりさせておきたい。亜双義は成歩堂に向き合って、視線を上げる。
「……成歩堂は、どうなんだ」
「ぼくは学友であり、戦友だと思ってるかな…美久璃さんのことは」
「……そうか」
うん、と頷く成歩堂。意外にもあっさりと認めさせられて、亜双義は悩んでいたことが馬鹿らしく思えた。“親友”と呼びあえる仲なのに、なんと愚かなことか。
「亜双義。気持ちを伝える気はないのか?」
「……まだ、今は」
「…そうか。…まあ、お前は大英帝国に行きたいっていう野望もあるしな」
成歩堂が懐から懐中時計を取り出す。寄る所があるらしい。成歩堂は亜双義をその場に取り残して、廊下の突き当りを左に曲がっていった。
「…………」
考えても考えても、亜双義の中で結論は出ない。
悶々としながら図書室に戻ると、先程と同じ席に座ったままの美久璃が目に入った。しかし、その顔は見えなかった。机に突っ伏しているからだ。まだ居てくれたことに安堵しつつ、そっと近付いて、美久璃の横に移動した。突っ伏しているのだと思った顔は、自分が座っていた席を向いていて、その瞳は閉じられている。
眠っているのだろうか。規則正しく凝縮する背中に手を伸ばして、揺さぶろうとした。
「……!」
だが、その手はそれ以上動かなかった。否、動けなかった。書き途中の課題とは別の、書留用の紙に書かれた一文。突っ伏して眠る前に書いたのだろうか、あまりにも不規則で不格好な文字列に目を奪われた亜双義が思わず息を飲んだ。
「亜双義、美久璃さんは……」
「シッ…!」
図書室の入口から顔を覗かせた成歩堂。静かな空間に遠慮のない声量が響き、それを受けた亜双義が慌てて自らの口元に人差し指を立て、静寂を促した。瞬時にその意図を理解したのか、成歩堂が申し訳なさそうな顔で唇をつむいでいる。
「……あれ、一真くん…?」
「…起こしてしまったか。まだ退校時間まで余裕があるから、寝かせようと思っていたのだがな」
「やだ、寝ちゃってたのね。…顔、洋墨とかついてないかな?」
寝ぼけ眼の美久璃が、亜双義に顔を向ける。それと同時に、何かに気付いた亜双義が、ハッとした顔をして美久璃の顔に手を伸ばし、その頬に触れた。
「汚れてる?」
微かに赤く染まっている目元。それが意味するのは涙なのか、それとも、この眩しいくらいの夕陽のせいなのか。どちらにせよ、思わず伸ばしてしまった手を引っ込めるためだけに、その目尻を優しく拭った。
「問題ない」
「ありがとう。……って、龍くんもいるじゃない」
「おはよ、美久璃さん。ぼくたち、もう帰ろうと思うのだけど」
「ま、待って!すぐ用意するから、一緒に帰らせて」
「もちろん」
のんびりと眠っていた美久璃の姿は、打って変わって急いで荷物をまとめている姿に変わる。書留用の用紙が折りたたまれるとき、亜双義は美久璃の横顔を気付かれないように見つめた。
こんなときこそ、自惚れていいだろう。わざわざ隣に座ってくれたという事実が、その全てを肯定してくれるようにも思えて、亜双義は内心、力強く握った拳を高々と掲げたくなる気分になっていた。
「美久璃」
「うん?」
「オレもだぞ」
「…なにが?」
美久璃の問いに答えず、亜双義がにこやかに笑う。首をかしげ続ける美久璃がその言葉の意味を理解したのは、家に帰って教材を広げたときだった。
「うわー、そういうこと……」
解読不可能に近い英字が並んだ用紙。そこに書かれた一文を見て、美久璃が赤面する。勘違いかもしれないし、もしかしたら、そういう事かもしれない。明日からどう接すればいいのだろう。英文の書かれた紙を見つめて、それから顔を手で覆った。
I think about you all the time.
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