帰り際の昇降口。
靴を履き替えようと下駄箱を開いた美久璃の視界が捉えられたものは、ひとつの封筒だった。
「ん?」
いつから入っていたのか、差出人も不明のその包みを開いて、中から丁寧に折り曲げられた便箋を取り出し、ざっと目を通してみる。丁寧とも雑とも言い難い文字の羅列は、その人の性格を現しているようにも思えた。
「こ、こ、……これは…!」
全文を読み終える前になんとなく察しがついた美久璃は、所謂"恋文"と呼ばれる類のそれの一文に、歯が浮きそうになるほどの口説き文句を見つけて共感性羞恥に襲われる。どんな恋愛小説を読んだらこのような比喩表現が身につくのだろう、そんなふうに思った美久璃の背後に、ひとつの影が迫っていた。
「美久璃、帰りか?」
「ひうっ…!」
美久璃は驚きのあまり素っ頓狂な声を上げながら、その手紙を自らの胸元に押し付けた。背後から声をかけた人物、亜双義一真は、美久璃の行動を見て首を傾げている。
「……何か隠したな?」
「な、なんでもない!一緒に帰ろう、一真くん」
美久璃と亜双義は昔馴染みだが、美久璃が家庭の事情で引越しを余儀なくされ、幼くして別れという経験を積んだ間柄でもあった。しかし、これまた家庭の事情で美久璃がこちらに戻り、無事に再会を果たすことが出来たふたりの仲は、良くも悪くも変わっていない。それをどこかで悲しい、寂しいと感じている美久璃。それが昔馴染みという関係から来る感情ではないことを、密かに知っている。
帰路についた美久璃は隣にいる亜双義と他愛のない会話を繰り返しながら、先程見た恋文について考えていた。
「……心ここに在らず」
亜双義が美久璃の横顔を見ながら、ぽつりと零す。その言葉が耳に入った美久璃は「え?」と声を上げて亜双義を振り向いた。
「今日は元気がないな。何かを気にしているみたいだ」
「…わかっちゃうかー」
「当然だろう。……話せるなら、聞かせてほしいのだが」
美久璃はしばらく考え込んだあと、ゆっくりとうなずいた。
公園の長椅子に腰掛けたふたりの瞳には、幼い子どもたちが遊具で気ままに遊び回っている姿が映し出されている。いつかの思い出を蘇らせるには、十分な光景だった。幼い頃は互いをただの仲がいい友人だと思い込み、今よりもずっと親密な関係だったこと。誰よりも信頼し合っていて、包み隠さず話し合いが出来たこと。今となっては昔の自分が羨ましい。
長椅子に座っているふたりの間に、幼い頃のふたりが座れそうなほどの距離が開いていた。
「それで?……先刻、咄嗟に隠したものが気になっているのか?」
先に話を繰り出したのは亜双義だった。亜双義は美久璃に視線を移すが、美久璃は公園内を走り回る幼子たちを見たままだ。
「……えっと……、うん…」
美久璃は視線を落として、手元の鞄を探る。差出人の書かれていない、何の変哲もない白い封筒。一見したところ、恋文とは分からないだろう。美久璃はその中から一枚の紙を取り出して、ゆっくりとした動作で開いた。
「一目惚れしたのが三ヶ月前。想いを伝えたくて決死の思いで筆をとった、と……。まず自分のことを知って欲しいので、友人から始めてみないか……と書かれていて…」
「……恋文じゃないか」
驚きの表情を浮かべる亜双義と、黙ってうなずく美久璃。そうか、と誰に言うわけでもなく呟いた亜双義の言葉を最後に、ふたりの間には静寂が訪れる。
「……どうするんだ?」
「……どうしよう」
「無理に付き合う必要はない。……が、友人としてなら、繋がりは多いほうがいい、と、オレは思う」
「……でも……その人が私を好きと言っている限り、私は、そういう目で見られているんだと意識してしまいそうで……普通の学友としてやっていくのは、まず、無理……かも…」
結論は出ている。しかし、美久璃には勇気が振り絞れなかった。ズルズルと引きずって相手に期待を持たせるより、しっかりと断って諦めてもらうほうがいい。そうに決まっているのに、いざ人と対面して言うとなると、尻込みしてしまうのだ。
「美久璃は優しいからな。それを伝えろと言ったところで、きっと真っ直ぐには伝えられないだろう」
まるで読心術でも使ったかのような時期で亜双義が言った。美久璃は狼狽えて、項垂れた。
「…こういうときばかりは、自分の性格を呪う……」
弱々しく吐き出した美久璃に、亜双義がははは、と笑う。
「そう言うな。オレは……美久璃のそんな所が好きなんだ」
「……え」
項垂れていたのも一瞬のこと。美久璃は自分の耳を疑って、思わず隣にいる亜双義を振り返った。亜双義は美久璃を見つめたまま、不敵な笑みをその口元に浮かべている。
「なんなら、オレからその男に伝えてもいいぞ」
「……ど、どうして?わざわざ一真くんがそんなこと…しなくても…」
亜双義は微笑んで、首を横に振った。
「言っただろう。オレは、美久璃が好きなんだ」
「え……えっと、……どういう、意味で?」
「お、言わせる気か?……まあ、オレが一方的に美久璃を好きなだけだ。もっとも、こんな所で言うつもりはなかったが……恋文を受け取ったと聞いたらいても経っても居られなくなってな」
これでどういう意味か分かるだろう?そう言った亜双義が、どこか得意気な表情をした。頬を染めた美久璃の内側には、喜びの感情が育まれていった。
「こっ……!この文の返事は、No!に、する……!」
美久璃は思わず立ち上がって、手紙を握りしめながら亜双義を見下ろした。
「それはつまり、友人から始めるというのも?」
「うん!……わ、私には、両想いの人がいる、から…!」
今度は亜双義が「えっ?」と声を上げた。予想もしていなかったその反応を見て、美久璃が連鎖するように「えっ?」と肩を竦めた。
「……そ、……そうだった、のか。そうとは知らず、感情に任せて好意を伝えてしまったこと、どうか許してほしい。すまなかった」
亜双義は立ち上がって、美久璃に向かって腰を折り曲げた。美久璃はただ、瞬きを繰り返している。
「……あの、一真くん。……どうして?……どうして、こういうときだけ鈍感なの?」
「鈍い?想い人が居るのだろう?」
折り曲げていた腰を戻して、亜双義が不思議そうな顔をした。
「う…うん。そう、だよ。両想いって、今、分かった…よ……」
「……!」
もじもじと言いにくそうに体を捩りながら言う美久璃を見て、"鈍感"な亜双義も流石に理解したのか、眉を上げた。それから、みるみるうちに熱を持っていく顔を逸らして、口元を隠すように手を置いた亜双義がひとつ咳払いをした。
「……あー、つまり……。これからも、どうぞよろしく、という、ことか」
ようやく出てきた言葉なのだろう、珍しく目を泳がせている亜双義を見て、美久璃は瞳を輝かせた。
「てっ…、照れてるの!?か……か……かわいい!一真くん、かわいい!」
「か、かわいいとはなんだ。かわいいのは美久璃だ。まったく」
「ふふふっ」
「わっ、笑わなくてもいいだろう!とんだ勘違いをしたことは、認める……。くっ、なんて情けない」
亜双義は罰が悪そうな顔をして、小さく拳を握っている。美久璃は笑いながら、亜双義との距離を一歩、縮めた。
「いろんな一真くんを好きになりたい。……これからも、よろしくね」
「……ああ、こちらこそ。…好きだ、美久璃」
持っていた手紙を、そっと鞄にしまう。差出人不明のおっちょこちょいな恋の天使。しかし、美久璃にはその正体が分かっていた。わざとらしく雑に書かれていた文字のひとつひとつに隠しきれていない癖があり、それは見間違えるはずもなく、好きな人が書く字だったのだ。一目見た瞬間からそれは確信していたのだが、書いたのが本人だという証拠はないので黙秘を貫いていた、ということになる。
回りくどいことをするな、と思ったのと同時に、意外と奥手なのかもしれない、と気付いた美久璃が、目の前にいる差出人を見て小さく笑った。
林檎のような頬が、
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