〜 2 〜
同日 午後5時3分 アルテミス・ガーデン
肩身の狭い思いをさせられる、重苦しい話し合いがようやく終わって、セレーネは息抜きに邸宅の中庭に来ていた。
温室のようにガラスが張り巡らされた中庭の屋根の中央には、丸くかたどられたステンドグラスが施されている。青を基調としたそのステンドグラスは、傾きかけている太陽光を受けて中庭を彩っていた。
「あ、いた」
手入れの行き届いた薔薇の低木に囲われているベンチに近付いて、セレーネが声を上げる。やわらかな日差しを受けたベンチに、ひとつの小さな影。それに近寄ると、母・コニーによく懐いている飼い猫のルナルがセレーネに顔を向けて、大きなあくびをした。
「ルナル〜」
ルナルが寝ていた場所のすぐ隣に腰掛けたセレーネは、ルナルの頭に手を伸ばしてその小さな後頭部をゆっくりとした動作で撫でつけた。首元につけられたローズピンクのリボンがかわいらしい。ルナルは気持ちよさそうに目を細め、無防備にも顎の下を晒すように頭を上げている。
「ルナル、もう散々だよ。…どうしたらいいと思う?」
「にゃー」
「どうしようもないって?ひどいなぁ」
ベンチの上に立ち上がったルナルが背中を丸めるように伸びをして、それからセレーネの膝の上に乗った。気を良くしたセレーネはルナルの前足の下へ腕を伸ばし、ふわふわと柔らかい体を持ち上げて抱きしめた。太陽光をよく浴びているおかげで、“お日様の香り”がした。
「…ねぇ、ルナル。…私がいなくなったら、寂しい?」
「にゃあ」
「寂しいかぁ……優しいね」
抱かれてされるがままになっているルナルが身を捩る。それに気付いたセレーネはルナルの腹部に埋めていた顔を上げ、そっと自分の膝に戻した。ルナルは不機嫌そうに顔をしかめて、腹部の毛づくろいを始めた。セレーネが苦笑いをする。
「私ね……」
執念に腹の毛づくろいを続けるルナルを見つめながら、セレーネは呟いた。
「……家出、しようかと思っててさ……」
言葉の意味を理解出来るはずもないルナルの耳が、ピクリ、とひとつ揺れた。
幸い、セレーネには《絵描き》という特技があって、毎月それなりの印税が入って来る。絵画以外に趣味はなく、消耗品のインクを買うくらいにしか金銭を使わないので、貯金はかなりあるほうだ。出ていこうと思えばいつでも出ていけるのだが、今の生活に不自由があるわけでもない。両親のわがままには親孝行のつもりで付き合っていたので、出ていく理由がなかったのである。
しかし、今回の話はさすがに度が過ぎていた。セレーネの意思も関係なく決められた話は、どう説明されようとも納得がいきそうにない。
盛大なため息をつくと、何かを感じ取ったのか、膝にいるルナルが毛づくろいをやめて顔を上げた。
「それは困る」
「!?」
突然の低い声に驚いて、セレーネは体を跳ねさせた。それに同調するように、ルナルが膝から飛び降りる。声のした方向に顔を向けたセレーネが、口を開いたまま、少し離れた場所に佇んでいる高身長の男を見た。
「あ、あ、あなた!いつの間にここに!」
「つい先程からだ」
高身長の男…バロックは腕を組んで、レンガの敷き詰められた床に立って凝視してくるルナルに視線を向けた。
「…猫相手なら、随分と優しい顔をするのだな」
「……はあ?何見てるのよ。気持ち悪いわね…」
セレーネは悪態をついたあと、警戒するように立ち上がって退路までの道のりをチラリ、と確認した。暴言を吐かれても一切動じないバロックが、無言でセレーネを見つめている。
(ていうか、……よく見たらこの人……)
固唾を呑み込んだセレーネが、息を呑んだ。
(すごく……顔怖っ!)
「……何か?」
負けじと無言で見つめ返すセレーネの視線を受けて、バロックは表情を変えないまま何度か瞬いた。
額から眉間を通って頬にかけてまで大きな古傷のようなものが残っているし、肌色は悪いのに虹彩は鮮やかなアクアブルーをしていて、眼光が鋭い。おまけに図体が大きくて、かなりの高身長だ。夜中に出くわしたらひと目で腰を抜かしてしまうだろう。
「…結婚の話は終わったのよ。さっさと帰ってくださらない?」
その言葉を聞いたバロックが、考え込むように瞼を伏せた。
「……生憎だが。しばらくこちらへ滞在することになった」
「は?」
とんでもないことを聞いた、とでも言うようにセレーネが眉根を寄せる。
「父上らが、旧知の仲だと聞いた。久方ぶりの再会だそうだ、今は仲良く盃を交わしている」
「……はああ…」
父・ムンダがやけに楽しそうだった様子を思い出して、そういうことだったのか、とうなだれるセレーネ。バロックが言うには、滞在期間は約1ヶ月ほど。仕事に関してはなんら問題はないという。
(こっちからしたら、大問題なんですけど……)
バロックは組んでいた腕を解いて、セレーネを静かに見つめた。
「…何故、そこまで婚姻を嫌がる?」
セレーネは足元にいたルナルを持ち上げて、腕の中に抱いた。
「…質問に質問を返すようで悪いけど……あなた、結婚願望あるの?」
「…………」
バロックは黙り込んで、それから片手で顔を覆った。
「……正直、興味はない。……が、父上が望むなら、従うまで…」
「…あっそう。じゃ、私たち…絶対に結ばれることはないわね」
セレーネはそっぽを向いて、顔だけをバロックに向けた。腕の中のルナルがにゃあ、と声を上げて、セレーネを見つめている。
「私、あなたが嫌いなの。ひと目見た瞬間からね。……だから、二度とその顔を見せないで。金輪際、近付くことも許さないから」
顔から手を退かしたバロックがセレーネに視線を向ける。その視線から逃れるようにセレーネは顔を逸らして、片手でルナルを抱えながら懐中時計を取り出した。
「あっ」
力が緩んだ隙を狙ったのか、ルナルが暴れてセレーネの手元から逃げ出した。飛び降りた先は、バロックの足元。ルナルは甘い声を出しながらバロックに寄って、あろうことか、ゴロゴロと喉を鳴らしながらその足に自身の匂いをこすりつけていた。
「…………」
「…………」
ふたりは黙り込んだまま、バロックの足元をまとわりつくルナルを見つめている。やがてセレーネが盛大なため息を吐くと、それに気付いたバロックが顔を上げた。
「……飲んだくれてる父親に話をつけて、一日でも早く帰ってちょうだい。いいわね」
言うや否や、セレーネは入ってきた方向とは違う場所へ向けて駆け出した。
「ルナルのバカ!裏切り者ー!」
捨て台詞を吐いて中庭を出たセレーネの姿が、バロックの視界から消える。バロックもため息をつきたくなる気持ちになりながら、その場にしゃがみ込んで、ルナルの頭をそっと撫でた。
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