〜 8 〜
9月20日 午後2時12分 ベックフォード邸 アトリエ
絵の具の独特な匂いが鼻をかすめる、広々とした室内。開け放った窓からは爽やかなそよ風が流れ込む。
あれから5ヶ月が経過した今。すっかりと料理を物にしたセレーネのおかげでコニーは徐々に体力を取り戻し、身体的には快調を取り戻しつつある。ムンダが存命だった頃に比べるとかなり弱々しいものだが、その顔には笑顔が戻っていて、セレーネを心底ほっとさせたことも記憶に新しい。環境はかなり変わったが、平穏な日常が戻りつつあるのだ。
セレーネは絵筆を手に正方形の小さなキャンバスが乗ったイーゼルへ向き合い、真剣な面持ちで色を混ぜ合わせている。その正面に用意された椅子に腰掛けているバロック。どこか落ち着かない様子を見せていた。
「もうちょっと笑顔になれないの?」
「……無理だ」
「まあ、いいけどね」
セレーネからの頼みで“被写体”となっているバロックは、言われた言葉に対して尚更眉間にシワを寄せてしまう。あまり喜ばしいことだとは思っていないようだ。
アタリを終え、色塗りへと着手してからはその被写体もあまり意味を成していないが、それは本人には言わないようにしている。この様子だとすぐに退室してしまうだろう。絵を描き始めて30分が経過した頃。セレーネは最後の色を置き、キャンバスから体を離して絵全体のバランスを見た。
「……うん、描けた!もういいよ」
それを聞いたバロックが椅子から立ち上がり、セレーネの隣に移動してキャンバスを覗き込む。被写体を頼んだときは少なからず興味ありげな反応を見せていたバロックだが、絵画となったキャンバスを見るなり不思議そうな顔をした。それもそのはず、絵のどこを見てもバロックらしき者の姿は見つからず、日が差した世界に佇む羽の生えた天使がいるのだ。
「被写体になれと聞いたのだが」
想像通りの反応が来て、セレーネは思わず笑いをこぼした。
「これバロックさんだよ。バロックさんは死神なんかじゃないっていう絵」
中心にいる天使を指差して柔らかく微笑んだセレーネが言う。水に濡れたキャンバスがそよ風を受けて少しずつ乾いていく様子を見ながら、バロックは天使に視線を奪われていた。引き込まれているのだろうか、セレーネが熱視線を送っても絵画から目を離す気配はない。
「気に入ってくれた?」
「……てっきり似顔絵でも書かれるのかと思っていた。いい意味で…期待を裏切られた気分だ」
「よかった」
セレーネは絵画に向き合って、バロックと同じように光の中で佇んでいる天使を見つめた。光の強さを強調するために置かれた深いブルー。よく見ると、その背景はかの大法廷であるオールドベイリーが描かれているのだが、本当に目を凝らさないとそれだと気づけないだろう。もっとも、そのオールドベイリーはしっかりと見たことがないため、空想上のものでしかないが。きっとこのような天使がいても違和感がないような、綺麗な場所だと想像がつく。
「…ねえ、バロックさん」
絵画を向いたまま、セレーネが切り出すように言った。
「……検事として、もう法定に立つ気はないの?」
「…………」
バロックは、ふたりにしか聞こえない静かな声で語るセレーネに視線をやる。そのうしろ姿からは質問の真意は読み取れない。しかし、茶化してたり不真面目に聞いているような雰囲気は感じ取れなかった。
「……あの日…犯人が見つかった日…私、すごく嬉しかったの。バロックさんが、第2、第3の被害者が出る前に助けてくれたんだって、思って」
持ったままだった絵筆をイーゼルに備え付けられた筆置きに刺して、パレットをタボレットに置く。静かな空間には、その一連の流れで出た音すらも大きく感じられた。
「バロックさんなら救える人、たくさんいると思うの。《死神》と呼ばれることの辛さ、私が理解出来るわけがないけど…でも…」
セレーネは椅子に腰掛けたまま体を回転させて、バロックを見つめた。バロックの表情はなにひとつ動いていないように見えるが、どこか迷っているような顔をしている。その変化にも気付けるようになったのだ。今だったらこの言葉もお節介や虚言にはならないだろう。そう確信したセレーネが息を吸った。
「…支えることは出来るから。今度は私が、バロックさんの力になりたい」
互いの視線が絡み合う。それでも、バロックはセレーネを見下ろしたままで口を開こうとはしない。
セレーネはそこでハッとした。この話題については今まで一度も触れたことがないのだ。見合いという形であれど婚約を交わした身だが、他人は他人。土足で人の心に入り込み、地雷を踏み抜いてしまったのではないかと焦る。セレーネは慌てて労いの言葉を探した。
「……えーっと…!…つ、疲れてたら、出来る限りのことをして癒やすし、愚痴聞いたり!あと……!い、色々するから!バロックさんの好きなこと、しよう?それと……」
バロックは目を伏せて、静かにセレーネの言葉を聞いている。セレーネは唇を噛んで、一番言いたかったことを頭の中で繰り返した。
「それと、私も一緒に戦いたいの。…復讐してくる人たちと。バロックさんは絶対に殺させない。…そのための、強力は惜しまないから…いつか……。バロックさんを苦しめる《死神》の正体、一緒に暴きませんか?」
「…セレーネ」
バロックの表情は厳しい。やはり自分が付け入る隙きはなかったのだろう。しかし、本心であることは分かってもらいたかった。
「…ごめん。《死神》のことよく知りもしないし、司法なんてもっと分からないのに。しかも武芸なんてこれっぽっちも身につけてないわ。…出過ぎたことを言ってごめん」
「…セレーネ、聞いてほしい」
「……は、はい」
うつむいていたセレーネの視界に、折り曲げられた膝が入る。跪いたバロックがセレーネに目線を合わせて、自らの胸の前に左手を置いた。
「セレーネ。…私と、祝言を挙げてくれないか」
「……はぇ…!?」
思いも寄らぬ、というより、どうしてそのような流れになったのだろう。突然の求婚に驚いたセレーネの口からは「はい」と「え!?」の返事が混ざったような声が出る。冷静になれない頭で、必死に返事を探した。
「…もっ…もちろん。そのつもりよ?そのためにここまで…」
「見合いだから、という意味ではない」
「え…」
膝に置いていた左手がすくわれる。所々に絵の具が付着してしまっている手は、とてもじゃないが綺麗な状態とは言えない。すぐに引っ込めたくなる衝動に駆られつつも、セレーネは真っ直ぐに見つめてくるバロックに視線を向けた。
「伽話や小説などに出てくる悪党…所謂“作り物”と呼ばれる存在は、意外にも近くにいる。《死神》がまさに、それだ」
「……うん」
「《死神》は法定で猛威を振るってくるが、以前にも話したように…それをよく思わない輩が私に攻撃を仕掛けてくる。それが思わぬ犠牲を生み出すこともある。セレーネを巻き込む危険性だってある。……それでも、傍に居てほしいと思った」
バロックの瞳の奥から、見たことがない光が差し込んでくる。きっと、彼の言葉も本心から出てくるものなのだろう。セレーネは目頭が熱くなるのを感じた。
「私は最近になってようやく、“大切な人を守りたい”という気持ちを知った。セレーネのおかげだ。敵と直接対峙することはしなくていい。ただ傍にいて、この気持ちが芽生えた心を支えてほしい。支えてくれるセレーネを、守りたい」
「…うん……」
嬉しい、という感情がこみ上げる。すくわれていた手にはいつの間にか力がこもって、バロックの手を握っていた。
「心から、セレーネを愛している。どうか…結婚してほしい」
さあっ、と風が吹いてきて、ふたりの髪を揺らした。それにひと押しされたように、セレーネの瞳から溜まりに溜まった涙が大粒の雫となってこぼれ落ちる。嬉し涙とはなぜ、こんなにも幸福感を受けるものなのだろう。セレーネは目元を人差し指の腹で拭って、笑顔を浮かべた。
「……不束者ですが、よろしくお願いします…!」
バロックは安堵の表情を浮かべて、セレーネの手を持ち上げ、薬指にキスを落とした。バロックはもうひと押しが欲しかったのだという。初めて気持ちが通い合っているのか、互いの表情は柔らかい。悲しそうな顔をしたと思ったら、急に焦ったり。そうかと思えば、突然照れたり。今は嬉しそうに泣いている。ころころと変わる表情をこれからも見ていきたい、そう思った心に従ってバロックは立ち上がり、同時にセレーネを立たせてその腕を引くと、自らの胸の中へ閉じ込めた。
―――半年後 午後8時49分 アルテミス・ガーデン
イギリス各所から集まった貴族や市民が盛大に祝う中で、無事に挙式を終えたふたり。バロックは無事に検事として復帰し、その功績を司法界に残している。
父・ムンダの喪中も終わり、ようやく腰を落ち着けることが出来たふたりは、久々にこの中庭のベンチで満月の光を浴びていた。
「明日にはそちらへの引っ越しが終わりそうよ。お母様は…お父様との思い出がつまったお家だから捨てられないって、結局こちらに残ることになったみたい」
「…そうか」
「お仕事、どう?」
「……復帰早々、不思議な出会いがあった。…あまりよくない意味で、な」
「ええ、そうなの?聞かせてよ」
「今宵でなくてもいいだろう」
バロックは法定で出会った弁護士について軽く説明したあと、それ以上は何も口にしなかった。セレーネとしても、プライベートでまで仕事の話をさせたくはない。バロックの横顔をしばらく見つめて、少しだけ距離を詰める。肩がふれあいそうな位置まで来たセレーネは、そっとその頭をバロックの肩に預けた。
「無事に復帰出来たのは、セレーネのおかげだ。感謝している」
寄りかかった状態のまま、左手を取られて握られる。自分のものよりひとまわりもふたまわりも大きな手だ。その手に視線を落としたあと、セレーネはゆるく首を振った。
「ふふ、私は何もしてないよ。全部、バロックさんが強いから出来たこと。…大丈夫。きっと全部上手くいって、《死神》の正体もわかるよ」
「そうだといいな」
包容力のある安心感がセレーネの眠気を誘う。今日はとても疲れた。明日は久々の休みでゆっくり出来る日。なにをしよう、と考えながら瞼を伏せていくセレーネの顎下を、バロックがもう片方の手でこそこそとくすぐった。
「んっ、なに。私は猫?」
身を捩って顔を上げたセレーネがかすかに眉を寄せる。バロックはそれを狙っていたかのように笑って、セレーネの唇を奪った。目が覚めるような、窒息させられるのではと思うくらい濃厚なそれに、ゆるい酸欠状態にさせられるセレーネ。
「眠られては困るな。…部屋に来るのだろう?」
ようやく解放されたかと思うと、今度は耳触りのよい体の芯を揺さぶられるような声がすぐ近くで聞こえて、骨抜きにされた気分になる。ゆるやかにうなずいたセレーネは、頬に熱が集まるのを感じていた。
「……行く」
「では、もう戻ろう。身体が冷える」
バロックのエスコートでセレーネが立ち上がる。暖色の小さなライトが足元を照らす中庭から出ようとして、しかし、バロックが立ち止まった。
「……?」
不思議に思ったセレーネが目の前で佇んでいるバロックを見上げて、それから「わぁ、」と声を上げる。まるで宝石かなにかを見つけたときの感覚だ。バロックも同じのようで、その瞳に綺麗な“色”が反射していた。
「月明かり…。綺麗だ」
「バロックさんも綺麗だよ」
バロックには衣服に。セレーネは髪に。このアルテミス・ガーデンの象徴ともいえるステンドグラスの光が落ちている。バロックは思わずその髪に手を伸ばして、さらり、と撫でた。
「月光のヴェール、といったところか」
素敵だね、とセレーネが微笑み、釘付けになっているバロックの瞳の奥の光を見つめる。出会ったばかりの頃は、迷いの色が強かった光。それが今は、ただ真っ直ぐな信念を持った光へと変貌を遂げていて、見ていて励まされる思いだ。
視線に気付いたバロックがセレーネの瞳を改めて見つめて、髪を撫でていた手が、やがて唇に移動する。セレーネはふわりと笑って、ゆっくりと瞼を下ろした。
FIN...
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