〜 02 〜
エスポワールに仕事机を用意してほしい。バンジークスのその言葉に従って、ユリアの1日の仕事が始まった。退役した検事たちのデスクがしまわれているという倉庫に案内を係官に頼んで、昨日バンジークスに連れて来られた影の人物、エスポワールと共に仕事机の選定に来ている。倉庫の中へ綺麗に並べられて置かれた机は、多少なりとも埃をかぶっているがしっかりと保管されていて、そのデザインもゴテゴテとした重みのあるものから板に脚が4つ着いているだけのとてもシンプルなものまで様々だ。椅子にも例外はない。よりどりみどりだ、とユリアが振り返ると、仕事机が所狭しと並べられている場所とは逆の、退役した者たちが置いていったと思われる家具がてきとうに積み重ねられた場所を一点に見ているエスポワールの様子が目に入った。視線の先を辿っていくと猫脚が特徴的なローテーブルを見つけ、それと同時にエスポワールがそのテーブルを指差して「あれでいい」と声を出す。ユリアと係官は目を合わせて、それから椅子のことを尋ねると、「なくてもいい」と言い出す始末。本当に変わった人だ、とユリアは内心思いながら、係官に猫脚のローテーブルをバンジークスの部屋に持っていってほしいと頼んだ。
(たしか、バロック様のお部屋にラグマットとクッションがしまってあったはず……)
両手のふさがった係官のサポートをしながら、ユリアはバンジークスの執務室の倉庫の中を思い出していた。執務室の扉を開け、部屋に辿り着いた係官が適当な場所にテーブルを置いて敬礼をした後に持ち場へ戻っていく。その背中にお礼を投げかけながら、ユリアは部屋にバンジークスが戻ってくる前にセッティングを済ませてしまおう、と鍵の束がついたチェーンを懐から取り出し、部屋に入りながら後ろ手に執務室の扉を締めた。
「エスポワールさん、ちょっと待っててくださいね」
ワイン樽が並んだ壁の奥。そこにある扉に鍵を挿してノブを捻ると、薄暗い部屋が埃を巻き上げてユリアの入室を歓迎した。長らく放置だったここもそろそろ掃除しないとな、と頭の片隅で思いながら更に奥へ入っていき、過去に1度か2度使っただけのラグマットを引っ張り出す。保存状態がよかったおかげで埃はかぶっていないようだ。両手でしっかり胸に抱えて、次はクッションを探そうと部屋をぐるり、と見回したときだった。
「運ぼう」
いつの間にか倉庫へ入ってきていたエスポワールが、漆黒のローブの隙間から手を差し伸ばしていた。ユリアは一瞬だけ驚いてまばたきを繰り返したあと、ふわりと微笑んでその手に持っていたラグマットをエスポワールに手渡し、礼を述べる。そのあとすぐ、棚にしまわれていた厚みのあるクッションを見つけたユリアは埃がないかを確認して軽く叩いたあと、急ぎ足で倉庫をあとにした。
「これを選んだのか…?」
部屋に戻ってきたバンジークスは、ワイン樽棚を向いて置かれたテーブルを見て微かに眉をひそめた。テーブルの上には既に執務用のペンなどが置かれており、いつでも仕事が始められると言うように準備が整えられている。エスポワールは表情こそ見えないが、満足そうにバンジークスの言葉に頷いた。
「このほうが落ち着くらしいです」
未だに納得がいかないような顔でユリアが持ってきた書類を自分のデスクに置こうとしているバンジークスに説明した。床に座って仕事をするなんて聞いたことがない。エスポワールが記憶を失う前にひどい仕打ちを受けていて、悲しいことにそれが体に染み付いているのだろうか。ふたりの怪訝な視線を気にも止めず、エスポワールは用意されたクッションの前に跪くと、独特な、でも品を感じる動きでそのクッションの上へと移動し、机へ手を伸ばすとそれから動かなくなった。まるでなにかを思い出しているかのように。
(……でも、なんだかネコちゃんみたいでかわいいかも……)
実家の猫は元気だろうか、と思い出にふけったところで、ユリアがあることに気付く。エスポワールは記憶喪失なのだ。おまけに主席判事からの謎の命令で、ひと目見ただけで怪しいと思わせるローブや仮面を身に着けている。もし自分がエスポワールの立場だったら、と思うと不自由極まりないだろう。ユリアは訝しげにエスポワールの顔を覗き込んだ。
「エスポワールさんって、ご自分のお家の場所はわかるんですか?」
「…………」
「もしかして、検事局に泊まりこみ……とか?」
2度も首を横に振ったエスポワールの反応に、血の気が引いたユリアは慌てて、静かに書類に目を通しているバンジークスを振り返った。
「あの、バロック様。エスポワールさんの身の回りについての話って聞かされていないんですか?」
書類から一瞬だけ目を離し、床に座しているエスポワールを視界に捉えたバンジークスは、まるで興味がないといった様子で「聞いていない」と言い放ち、再び書類に視線を落とす。
「検事として育てろ、との命令のみだ」
そんなことだろうと思った、と頭を抱えたくなる思いをどうにか押し留めて、ユリアはエスポワールに向き直った。
「昨晩、あれからどうされたのですか?」
仕事を終えたふたりが執務室を出ようとしたときのこと。鍵の施錠もしなくてはならないので、エスポワールも例外なく執務室から出ている。そこで別れたのだ。その時点で気付くべきだった。ユリアはてっきり、ヴォルテックスが下宿でも手配してくれているものだとばかり思っていたので、そのあたりは言及しないでいた。まさか完全に放棄とは、あまりにも無責任すぎる。相手は一見外傷がないため気付きにくいが、記憶喪失という重症を負っている人間なのだ。そんな悶々とした様子で憤りを感じているユリアの耳にふと、情けない音が入る。
「…………」
今のは間違いなく、目の前の人物から聞こえた。腹の虫のような音だ。時計を確認すると、時刻は10時を回っている。もしも、家に帰ることなくそのあたりをフラフラしていたことが事実なのであれば、エスポワールは昨日のランチ以降、なにも口にしていないことになる。さらに血の気が引く思いをして、ユリアは断りを入れつつ、エスポワールの腕を掴んで立ち上がらせた。
「バロック様!少しお時間をいただいてよろしいですか!?失礼します!」
叩きつけるように言って、ユリアはそのままエスポワールの腕を引いて執務室のドアノブを捻った。半ば引きずられるようにして出ていくエスポワールの背中を見送って、残されたバンジークスは深く息を吐き、持っていた書類を置いて腕を組んだ。
「……何も言っていないのだが」
あの娘はあんなにもお転婆だったのか。というのも、バンジークスはユリアに対して出会った頃の第一印象からさほど変化がなく、ただ冷静に仕事をこなしてこちらの手を一切煩わせることがない、それこそまるで従順な機械のような人間だと思っていたのだ。ときおり見せる表情も、全て機械に仕込まれたものだと。ユリアにそんな冷たい印象を持っていたバンジークスも、彼の従者が来たことによる影響でユリアの心に動きがあったのなら、連れてきてよかったのかもしれない、と密かに喜びを示すのだった。
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